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新潟地方裁判所 昭和40年(ワ)153号 判決

原告 若林正平 外二二名

被告 北越製紙株式会社

主文

一、別紙原告目録「番号欄」2ないし23記載の原告らが、いずれも被告の従業員であることを確認する。

二、被告は別紙原告目録「番号欄」2ないし23記載の原告らに対し、

1  各原告に関する別紙賃金請求明細表記載の各金員およびこれに対する同表中「月度欄」記載の各月二六日以降支払済みに至るまで年六分の割合による金員

2  各原告に関する別紙一時金請求明細表記載の各金員およびこれに対する同表中「支払日欄」記載の日の各翌日以降支払済みに至るまで年六分の割合による金員

を各支払え。

三、被告は別紙原告目録「番号欄」1の原告若林正平に対し、

1  同原告に関する別紙賃金請求明細表記載の各金員(但し昭和四四年三月および四月の両月分を除く)およびこれに対する同表中「月度欄」記載の各月二六日以降支払済みに至るまで年六分の割合による金員

2  同原告に関する別紙一時金請求明細表記載の各金員およびこれに対する同表中「支払日欄」記載の日の各翌日以降支払済みに至るまで年六分の割合による金員

3  金三〇九万八、五五三円およびこれに対する昭和四四年三月一日以降支払済みに至るまで年六分の割合による金員

を各支払え。

四、別紙原告目録「番号欄」1記載の原告若林正平の第一次請求を棄却する。

五、訴訟費用は全部被告の負担とする。

六、この判決は第二、三項に限り仮りに執行することができる。

事実

第一、当事者の求める裁判

原告ら訴訟代理人は、

1  「一、別紙原告目録「番号欄」1ないし23記載の原告ら(以下、単に「原告ら」というのは、同じ意。)は被告の従業員であることを確認する。二、被告は原告らに対し、(1)各原告らに関する別紙賃金請求明細表記載の各金員およびこれに対する同表中「月度欄」記載の各月二六日以降支払済みに至るまで年六分の割合による金員、ならびに、(2)各原告らに関する別紙一時金請求明細表記載の各金員およびこれに対する同表中「支払日欄」記載の日の各翌日以降支払済みに至るまで年六分の割合による金員を各支払え。三、訴訟費用は被告の負担とする。」との判決ならびに、第二項につき仮執行の宣言を求め、

2  原告若林正平に関し、仮りに右の請求が認められないときは、第二次請求として、主文第三、五項同旨の判決ならびに第三項につき仮執行の宣言を求めた。

被告訴訟代理人は、

「原告らの請求はいずれもこれを棄却する。訴訟費用は原告らの負担とする。」との判決を求めた。

第二、原告らの主張

一、請求原因

(一)  被告は長岡市に本店を置き、新潟、長岡、市川に工場を有する株式会社で、製紙用パルプ、上・中質紙、板紙等の製造、加工、販売を業とするものであり、右新潟工場は新潟市榎町五七番地にあつて、通称第一製造部(以下一造と略称)、第二製造部(以下二造と略称)からなつており、一造の従業員数は昭和三九年六月当時約一、三〇〇名であつた。

(二)  原告らはいずれも被告会社新潟工場に勤務する従業員であつた。

(三)  しかしながら、被告会社は原告らに対し昭和三九年九月三〇日付をもつて解雇の意思表示をしたと主張して原告らの従業員としての地位を争い、就労を拒み、賃金および一時金等を支払わない。

(四)  原告らの受くべき昭和三九年一〇月以降昭和四四年四月までの賃金ならびに一時金は、それぞれ別紙賃金請求明細表記載および別紙一時金請求明細表記載の各金員であり、被告会社の賃金支払日は毎月二五日、一時金の支払日は別紙一時金請求明細表中「支払日」欄記載の日である。

(五)  よつて原告らは被告に対し、被告の従業員たる地位の確認を求めるとともに、前記第一の1記載の金員(但し、原告若林に関しては第一次請求となる)の支払を求める。

(原告若林に関する予備的請求)

仮りに、原告若林が昭和四四年二月末日限り定年退職したものであるとすれば、同原告は本件解雇後右定年退職に至るまでの別紙賃金請求明細表記載の賃金(但し昭和四四年三、四月の両月分を除く。)および別紙一時金請求明細表記載の一時金のほか、被告会社と同原告を含む被告会社従業員をもつて組織する訴外北越製紙労働組合(以下組合と略称)との間に締結された左の諸協定により左に記載する退職金その他の諸金員(以下退職金等と略称)合計金三〇九万八、五五三円の支給を受くべきである。

(1) 基本となる退職金(昭和四二年六月九日協定)

原告若林は勤続年数三八年三カ月であり、この場合右協定による退職金支給率は五二・三であるから、金二三六万八、六一五円

(2) 精算加算金(右同)

右協定による精算加算は同原告の場合右(1)の金額に加算率〇・二八を乗じた金額であるから、金六六万三、二一三円

(3) 退職加給金(昭和四三年一二月一六日協定)

右協定による退職加給金の計算方法は

退職時基準内賃金×一七〇・二%=勤務月数/6

であり、同原告の場合右の勤務月数は昭和四三年一二月から昭和四四年二月までの三カ月であるから、結局、退職加給金は金四万、六七二五円

(4) 退職記念(昭和四三年五月九日協定)

右協定によれば定年退職の場合記念品のほか金一封(金二万円)が支給されることになつている。

従つて、原告若林は(1)別紙賃金請求明細表記載の前記賃金、および(2)別紙一時金請求明細表記載の一時金、ならびに(3)定年退職に伴う前記退職金等および右各金員に対する各支払日(退職金等については昭和四四年二月二八日)の翌日以降支払済みに至るまで商事法定利率年六分の割合による遅延損害金の支払いを求める。

二、抗弁に対する答弁

被告会社新潟工場が新潟地震により損害を受けたこと、二造が昭和三九年七月一三日から、一造設置の六号機が同年八月三〇日からそれぞれ運転を再開したこと、被告会社が一造の六号機を除くその他の機械設備等一切の廃棄を決定し、これに代わる再建計画を樹立したこと、被災直後の新潟工場の人員配置および激甚災害に対処するための特別の財政援助等に関する法律(以下激甚法と略称)の政令の施行があり、被告会社ではこれを受けて同年八月一日から一造の従業員中男子四三七名、女子九一名合計五二八名を休業者に指名したこと、被告会社が帰休者選定基準を組合に提示したこと、および右基準第一項により解雇されたとする原告らの生年月日は被告主張のとおりであることは、いずれも認めるが、被告会社において地震の被害により一造の単純復旧を断念し、一造地区の全面撤去の方針を決定した経緯、内容については知らない。被告主張の新潟地震による被害の程度、解雇の必要性および解雇基準の原告らに対する具体的適用の点については争う。

三、原告らの再抗弁

本件解雇の意思表示は次に述べるとおり無効である。

(一)  労働協約、労使慣行上の協議義務違反

被告会社と組合との間においては労働協約が締結されており、右協約によれば「労働条件に関する一般的基準事項」は中央における中央労働協議会(被告会社における労働条件について協議する機関で以下単に中労協と略称)の協議事項であるとともに、また、事業場ごとの事業場労働協議会(被告会社の事業場ごとにおける労働条件について協議する機関で、以下単に事業場労協と略称。)の協議事項でもあり(労働協約一八条四号、一九条三号)、このほか「人員整理に関する基本事項」は特別に条文が設けられ協議事項と定められている(同四六条二項)。そして、この中労協で反覆協議しても協議不成立の事項は、さらに中央団体交渉の交渉事項とされ、さらにこの交渉で委託された事項は、事業場団体交渉の交渉事項となることが明記されている(同二七条一項二号、二項二号)。また、職制変更に伴う人員配置については「予め組合に提示し、その意見を徴する」(同四〇条)ことになつており、この点からも協議義務が定められている。このほか、新潟支部事業場においては、従来中央団交からの委任がなくてもその事業場における問題については、自主的に支部、工場間の交渉を経ることが慣例となつており、昭和三八年に行なわれた第一次合理化の際には、半年有余にわたつて事業場交渉を約二〇回、課長交渉を約一〇〇回、合計一二〇回も経てきたのである。

しかるに本件解雇にあたつて被告会社は、右の労働協約の明文の定めに違反し、従来の労使慣行を蹂躪して協議義務を尽さなかつた。憲法は労働者に対し団体交渉権を保障しているが、労働者固有の権利ともいうべき団体交渉権、従つて、使用者の協議義務に違反してなされた本件解雇は無効である。詳述すれば次のとおりである。

(1) 被告会社が昭和三九年八月一日(以下年を記載しないものはいずれも昭和三九年)から強行した休業は激甚法適用による休業であつた。それは形の上では一応在籍のままではあるが、会社からは離職票の発行を受けて失業者として扱われ、失業保険金を受けるものであつて職場を追われた労務者にとつては正に事実上の解雇につき落される処置であつた。実際、原告らを含む一七四名の労働者はそれ以降職場に一日たりとも戻されることなくそのまま正式の解雇通告を受けたのである。被告会社は七月二七日の中生協において、休業を発表しながら、その後「完全雇傭は約束しかねる」と言明する状態であり、休業は重大な問題であつた。ところが、被告会社は一方において同月二八日中央団交で休業を提案したので組合側が検討期間を求めたところ、被告会社もこれに同意して同月三〇日に協議を行なうこととしながら、他方、新潟の事業場労協では七月二九日に至つてはじめて休業の説明がなされたが、その説明がなされている間に、被告会社は既に一造の労働者各人に対し休業の業務命令を発送してしまつた。このように、解雇につながる重要な休業の問題について、あるいは後日協議を約し、あるいは提案の説明をしている裏で一方的に休業の業務命令を発して既成事実をつくつたことは前述の労働協約に違反するものである。

(2) 右にみたように、八月一日からの休業を業務命令として強行した被告会社は、ひき続き同月六日の常務会で職制改訂に伴う人事異動の審議を行ない、翌七日その決定をなしたが、右人事異動を組合に提示することによつて余剰人員の生ずることが明確となり、ひいては解雇の意思が組合に知れることをおそれ、労働協約違反となることを承知のうえで、「六号機運転に伴う休業解除」という名目で、新職制(新定員)に伴う三〇〇名を超える人事異動および休業解除を強行した。この休業解除は八月一九日から九月一日までの間五回にわたつて強行されたが、いずれも、被告会社において休業を解くものにその旨の業務命令を発し、既成事実を作り出しておきながら組合には出勤日の一日前に通告するなど、労働協約、労使慣行を無視して強行されたものである。

(3) 被告会社は九月七日にいたり、同月三〇日現在の激甚法適用による休業者三〇三名の中から男子九五名、女子三四名、合計一二九名を帰休者として選定し、残余の男子一七三名、女子一名、合計一七四名を同月三〇日付で解雇する旨の提案を行なつた。しかしながら、同日現在の激甚法適用による休業者は三〇三名ではなく三三一名であつたから右の提案は虚偽であつたばかりでなく、帰休者の選定基準については何らの説明をすることもなく単に人物本位であるとか、職場適性、勤務状況、年令といつたことのほか、「会社の方針に現在、将来ともそつてくれるかどうか」という基準というにはあまりにもあいまいなものであつて、解雇の基本事項については誠意をもつて協議する態度を示さず、退職条件なら協議に応ずるというのみであつた。被告会社はこの段階で既に解雇者の人選も終えていたにも拘らず、その事実を秘匿し、右のような態度に出たものである。

(4) 九月二二日被告会社は解雇提案以来組合に追及され続けて来た解雇基準(帰休者選定基準)をようやく文書で組合に提示した(新潟支部に提示したのは同月二三日である。)。そして翌二三日には「同月二四日に解雇の指名通告をおこなう。」との態度を明らかにした。これに対し、組合は、被告会社に対して、組合大会を五日後にひかえ、その際組合としての意思統一の必要もあるからこのまま協議を続け、解雇通告の発送はその後にしてもらいたい旨条理を尽して要請したにもかかわらず、被告会社はこれを拒否し、九月二四日指名通告を発するに至つた。組合の各支部は工場ごとに分散しており、解雇という重要な問題について、二千数百名の組合員の意思を短期間内にまとめることはとうてい不可能というべく、このことを見越して、組合の意思統一を待たずに一方的に指名通告をなしたもので被告会社の態度は協約違反というべきである。

以上のような被告会社の激甚法適用による休業、同休業の解除、その後における解雇の提案の内容、経緯等、本件解雇に至るまでの一連の経過をみればあきらかなように、被告会社は本件解雇にあたつて、組合との間に明文をもつて定められた労働協約に違反し、従来の労使慣行を蹂躪して組合の意思を無視し、一方的に解雇を強行したものであるから、組合との協議義務に違反してなされた本件解雇は無効である。

(二)  不当労働行為

(1) 紙パ産業は、昭和二〇年敗戦による廃虚の中から出発して、昭和二四年までに一応の生産体制を整え、朝鮮戦争を契機として昭和二七年には戦前の生産量にまで回復し、昭和三一年の神武景気を経て、昭和三二年秋の不況を操短と大量人員整理で乗り切つた。昭和三七年秋からの「貿易・為替の自由化」は紙パ産業にも大きな影響をもたらしたが、これに備えて使用者は大量生産品種、新製品の開発を重点とした新工場の建設、機械の大型化、高速化、オートメ化等の体質改善合理化およびそのための大量設備投資を行なう一方、不採算部門の閉鎖、間接部門、補助部門の下請化が行なわれ、これに伴ない希望退職または指名解雇による不当な人員整理、配置転換、福利厚生費の削減、休日出勤、連続操業方式の常態化などの労働強化が行なわれた。このような合理化攻勢に対して各社労働組合は単独または共同で強く抵抗して闘い、これに対し使用者は解雇、御用組合の結成、組合分裂、組合活動の制限などの不当労働行為を行なつて組合弾圧の挙に出た。

昭和三七年貿易の自由化によりわが国は世界第三位のパルプ輸入国となり、このため各企業は規模の縮少を余儀なくされ、労働者の解雇、労務管理強化による労働強化などの合理化が推進された。これに対し労働者は反対闘争を続けたが使用者は労働者に労使強調の思想の普及をはかり、職務給、職能給による賃金制度、資格制度を改訂し、組合分裂を画策し、合理化を進行させた。このように、使用者は合理化に抵抗する労働者、労働組合を抑圧してきたのであり、本件解雇もその一環にすぎない。

(2) 被告会社は昭和三〇年三月当時資本金九億円、従業員数三、二〇〇名を擁し、長岡本社のほか新潟工場、パルプ工場、長岡工場、市川工場、戸田工場、新潟支社、東京支社を有していたが、昭和三一年から昭和三二年にかけて長岡工場三号抄紙機、パルプ工場BEP設備を新設する一方、長岡工場フアイバー加工場の閉鎖と連続マシン設置、新潟工場八号抄紙機閉鎖、更生パルプ職場の臨時工化、連続操業方式の強化、一二〇名の臨時工の人員整理など一連の生産性向上政策によつて労働強化をすすめるとともに本社勤労部次長に初代組合執行委員長を就任させ、組合対策や組合との交渉の担当にあててきた。

そして、昭和三三年三月被告会社は企業競争にうちかつためとして、一方で四〇名余の新規採用を決定しながら、組合員四二四名、臨時工二六〇名の大量人員整理を提案したが、組合の強い抵抗にあい、指名解雇の棚上げ、退職条件の引き上げを骨子とする協定が成立し、被告会社の意図は大幅に譲歩することを余儀なくされた。

その後も被告会社は合理化攻勢を強め、労働者の生活と権利をおびやかし続けたが、昭和三八年七月二六日開催の中央生産協議会(被告会社の運営について労使双方において協議する機関)において、被告会社は貿易自由化以後の国際経済の変動に対処するため年間六億円の収益力のある企業となることの必要性を説いていわゆる第一次体質改善合理化計画を提案した。この提案によれば特に原告らの職場である一造に対し、人員の削減、配転など集中的な攻撃がかけられた。しかし、組合は定期大会において、会社提案に対しては大衆路線で闘う方針を打ち出し職場討議を積重ね、職場要求、課長交渉等をもつて対決することを決め、新潟工場では一造労働者がその中心となつて闘つた。このため被告会社は当初の計画を大幅に変更せざるを得なかつた。かくして被告会社は体質改善合理化計画を遂行するため、強固に抵抗する一造地区の職場組織を弱体化させ、北越製紙労働組合新潟支部、あるいは北越製紙労働組合そのもの、ひいては紙パ労連を弱体化させる必要に迫られ、その突破口として、新潟地震に便乗しまず一造地区の労働者を対象として本件解雇におよんだものである。

(3) 被告会社は本件解雇に際し九月七、八両日開かれた中央団交の席上、解雇基準と裏腹の関係にある帰休者選定基準を組合に提示したが、その基準というのは(イ)職場適性、(ロ)勤務成績、(ハ)年令度のほか、(ニ)会社の方針に現在将来とも沿つてくれるかどうかの点をも加味し、これを綜合的に考慮して人物本位に判断するというものであつたが、このことからも明らかなように、被告会社はその目的とする体質改善合理化に抵抗する労働者を解雇する意図をもつていたのである。被告会社の右のような意図は本件の被解雇者一七四名の中に、本部執行委員一名、補助中央闘争委員一名、支部常任委員一名、支部評議員一六名、職場委員七四名、組合専従書記二名、青年婦人部役員および幹事五名の組合活動家が含まれていること、ならびに組合の中心活動家はほとんど三〇才未満ないしは三〇代の若年労働者がこれを占めている現状からするならば、三〇才九カ月以下の労働者は無条件にこれを解雇するという被告会社の帰休者選定基準第一項自体若手活動家を企業から排除し、ひいては労働組合の弱体化をねらつたものであるばかりでなく、右の基準第一項に該当するものは基準適用時には一造の全従業員中に二〇名いたはずであるのに、現実に右基準を適用されて解雇されたのは原告らを含む一四名だけであり、それらのなかには支部常任委員一名、支部評議員五名、活動家二名が含まれており、その他六名は昭和三九年三月から八月までの間に市川・長岡工場への転勤の勧奨を拒否したものであることによつても明らかである。

(4) 被告会社は本件解雇に際し、その理由として、「会社の基盤、実力が弱いうえに今回の地震による甚大な被害が加わり、被害職場の全員を抱えていくことは、会社の再建を遅らせるだけでなく、ひいては将来会社の存立さえも危くする。」と述べ、一七四名の解雇を行なつたがその後昭和四〇年四月一日付で二一名の新規採用を行なつたのを初めとして、翌年四月一日までに一〇一名の従業員を新たに採用し、二二名の臨時作業員を新潟工場に採用している。このことは合理化に抵抗する一造の労働者を排除し、合理化を受け入れ技術革新に即応できる労働力を確保するためになされた労働力の整理編成であつて、合理化に抵抗する労働者の排除と労働組合の弱体化という不当労働行為の意図を隠蔽するために中高年令労働者をも併せて解雇したものである。

(5) すでに第二の三の(一)で述べたように被告会社は二造復旧の方針を明らかにするや、二造の労働者に二造の職場を確保して安心させ、反面一造の労働者の大半を休業者として不安に陥れて一造と二造の労働者の離間をはかり、その後六号抄紙機が運転再開となるやその運転要員は休業中の六号抄紙機関係者の休業を解いてそのまま復帰させることなく、他の職場関係者の中から被告会社において一方的に指定したものをもつてこれにあてるいわゆる「さしくり就労」や、休業者全員の休業を同時に解いてこれを同時に就労させることなく、逐次、休業を解いて出勤させるいわゆる「こまぎれ就労」を強行するなど被告会社の一方的な業務命令によつて一造労働者の中にも対立と混乱を惹き起こし、労働者の団結を切り崩して組織破壊をもたらしたものであるばかりでなく、本件解雇に際して希望退職を募らなかつたのは、労働者に対する分断攻撃であり、かつまた、特定の活動家の排除を意図したものであるから、かかる意図に基づいてなされた本件解雇は全体として不当労働行為に該当し、無効というべきである。

(三)  解雇権の濫用

(1) 被告会社の被災直前の昭和三九年四月期における経営内容は、前期にひきつづき売上高五二億八、八〇〇万円、純利益二億六、〇〇〇万円にのぼりその実績は上昇期にあつた。これを紙パ業界第一部上場会社中同程度の規模にある五社と比較すると、被告会社は総資本、総売上高でそれぞれ五位であるが収益性の面をみると総資本収益率、売上利益率では第二位を占め、全産業平均・紙パ産業平均よりも上位であつて、被災直前の被告会社は、企業規模大ならずとはいえ、その経営内容の質的な面においては優良を誇り得る状態にあつた。

ところで被告会社の被災は新潟、長岡、市川の三工場のうち新潟工場だけであり、抄紙機では三工場で稼働中の一三台のうち五台であり、そのうち廃棄処分となつたものは二、五、七号機の三台だけであつた。しかもその三台は他の抄紙機に比較して従来から生産性、収益性の劣つているものであつた。そして被災による生産高の低下は九一・九トンにすぎず、昭和四〇年一〇月完成予定の新三号機の稼動によつてほとんど回復されることになつていたものである。

しかして被告会社は被災損失について、あるいは一〇億八、三〇〇万円と主張し、あるいは一〇億一、九〇〇万円(有価証券報告書の記載)ないし九億六、四〇〇万円(金融機関に対する震災復旧資金申込の記載)と計上するなど労働者向け、株主向け、金融筋向けに意識的に被災損失を使いわけしているばかりでなく、被災とは直接関係のないスト損失九、〇〇〇万円や一般管理費や金利等として六、四〇〇万円をも被災損失として計上するなど被災額の水増操作をしているが、このことは被告が本訴において被災損失をできるだけ過大にみせかけ本件解雇の正当性を意識的計画的に糊塗しようとするものである。

現に、生産面においては昭和三九年四月以降三期間低下しているが、これは被災による抄紙機三台のスクラツプ化が原因であり、その低下は一割にもみたないものであつて被災の生産活動に与えた影響がごく軽微なものであることを示している。すなわち、昭和四一年四月期には一一七%、同年一〇月期には一三六%、昭和四二年一〇月期には一四三%と著しい生産増加をもたらし、売上高もこれにほぼ見合つて急激な伸張を続けている。以上のように被災後の経営内容の特徴は被災による経営の停滞はごく一時的軽微なものであり、むしろ、全体としてみれば、被告会社の歴史にかつて見られなかつた高度成長、高収益の持続であつて「地震ぶとり」という言葉がまことに似つかわしい状況にあるといえよう。

(2) こうした被告会社の紙パ産業中において占める地位、会社の経営規模、収益力等に、被災損失の程度を比較すると、被告会社には原告らを解雇しなければならない必然性は毫も存しなかつたはずである。それにもかかわらず、被告会社が本件解雇を敢えて行なつたのは地震を悪用した首切り合理化以外の何ものでもない。すなわち、被告会社は昭和三八年八月、年間六億円の利益をあげ得る企業にするためとして「第一次体質改善合理化計画」を発表し、下級紙から白板紙、上・中質紙への転換をはかるべく市川工場白板五号機の新設と新潟工場六号抄紙機の上・中質紙への転換を柱に、新潟工場の三号機、SP設備を停止するための設備投資を行ない、ひきつづき地震直前の昭和三九年五月第二次体質改善合理化計画(以下単に「第二次合理化」と略称)として、〈イ〉BKP二系列、〈ロ〉一四七吋上質紙新マシン(日産六〇トン)、〈ハ〉Aマニラ計画、〈ニ〉勝田工場計画など所要資金八八億円の設備投資により年間二一〇億円の売上高をあげる企業の拡大強化計画を発表したが、被災当時「第二次合理化計画」のうち一四七吋マシンについてはすでに通産省から新設許可の内定を受けていた。

被告会社は新潟地震によつて前記のとおり一定の被災を受けたが、マシン本体にはほとんど大きな被害はなかつた。しかし、被告会社はこの地震に便乗し、早晩新鋭設備に代替しなければならなかつた二、五、七号機のスクラツプ化と、第一次体質改善合理化計画で上・中質紙抄紙機に改造した六号抄紙機のみを二造に移設することによつて一造を全面撤去し、さらに通産省からすでに新設許可の内定をうけている一四七吋上・中質紙マシンを中心とする第二次合理化計画の早期実現をはかり、一挙に企業を拡大強化する方針をもつて実行に移したのである。すなわち、被告会社が被災後おこなつた再建計画は前からあつた「第二次合理化」の早期実現をはかつたものにほかならず、また「第二次合理化」は昭和三三年以来被告会社において組織的計画的に始められた合理化のための長期計画の一環であり、地盤の脆弱性を口実としてなされた一造撤去の真の理由は地震とは何の関係もない被告会社の前記長期計画の方向にそつたスクラツプアンドビルド政策の実現であつた。

(3) 本件解雇の特徴の一は、被告会社が労働者に対するやつぎ早やの分断攻撃によつて解雇を強行したところにある。分断攻撃によつて労働者を切り崩し、労働組合の団結権、争議権を奪い取ることは支配者と被支配者という圧倒的力関係をうちたてることであり、労資対等の原則からいつて許されないことである。被告会社は、前述のように新潟地震を転禍為福の絶好の機会とばかり「第二次合理化」の早期実現をはかつたが、かつて、第一次体質改善合理化が労働者の抵抗で大幅な譲歩を余儀なくさせられた苦い経験の上に立つて、一切を問答無用に押し切り「合理化」遂行の目的のために分断攻撃の方法を用いたのである。すなわち、被告会社はまず、六月三〇日、七月一日の中労協において、二造地区と一造六号抄紙機を直ちに復旧する方針を明らかにし、二造の労働者にいち早く職場を確保して安心させ、一造の大半の労働者には期待と不安の気持をもたせながら復旧作業へと駈り立てた。そして被告会社は六号抄紙機の運転再開を目前にひかえた七月二八日再建計画とともに一造労働者五二七名を八月一日から休業させることを提案し、組合との協議を約束しておきながら、翌二九日には一方的に休業命令書を各人宛に発送した。被告会社はこのように労働者の団結を乱すため意識的に分断攻撃を加え、かつ、休業期限の終了する一〇月一日以降の完全雇傭を保障することなく労働者を不安な生活につき落しておきながら、さらに「さしくり」「こまぎれ」就労の分断攻撃を加えて、休業者の中に動揺と混乱をもち込んだ。こうした「さしくり」、「こまぎれ」就労は、出勤した労働者に対しては安堵感を、休業中の労働者に対しては絶望感をもたらし、労働者相互を対立させ、団結に分裂をもたらすものである。このようにわずか二ケ月足らずの間に、被告会社は「休業」、「さしくり・こまぎれ就労」、「解雇」、「帰休」と相次いで一方的に業務命令、指名通告を発して一造と他の職場の労働者、一造の中を出勤者(休業解除者)と休業者、休業者の中をさらに被解雇者と帰休者とに分断離間し、労働者の団結を切り崩し、組織破壊を行ない、労働者の生活と権利とをふみにじつたものである。

(4) 解雇は労働者にとつて死活にかかわる問題であるから犠牲を少しでも少くするためには希望退職を募るべきことは経営者としての義務でもある。然るに被告会社は全社的にはもちろん、新潟工場に限定しても、さらには休業中のものからさえも希望退職を募らず、労働者の生活について一顧だにすることもなく、一方的に指名解雇を強行したものである。被告会社は希望退職を募らなかつた理由として、もし仮に全社的に希望退職を募ると、(一)生産体制をくずす。(二)人心の不安をきたす。(三)第一次合理化の経験からみて転勤の問題でむずかしくなる。(四)社宅の建設など財政面の負担が生ずる。ことを挙げている。しかし、右の理由とするところは、いずれも被告会社の財政的譲歩もしくは誠意ある対話によつて解決さるべき性質のものばかりである。被告会社が希望退職をかたくなに拒否し、指名解雇を強行したのは、すでに述べたように労働者に対する分断攻撃を企てていたからであり、また、次に述べるように特定の活動家の排除と中高年令層の排除の基本方針に則つたものであり、その意図ないし結果において労働者の生活をふみにじつたものである。

(5) 第二次合理化の早期実現によつて企業の拡大が約束されていながら、さらに労働者の生活破壊によつて利潤をむさぼろうとする本件解雇の狙いは、地震前から一貫してもつていながら第一次合理化では労働者の抵抗によつて達成できなかつた圧縮人員政策と中高年令層労働者の排除を、地震をかくれみのとして一挙に強行したものである。

すなわち、一七四名の被解雇者中三〇才九ケ月以下(該当者基準第一項)の一四名を除く一六〇名の平均年令は四四才三カ月であり、二〇年ないし三〇年間というほとんど一生の大半を被告会社の発展に尽したこれらの高年令者が、ねらいうちに解雇されたのである。しかもそのねらいはその後被告会社が昭和四一年四月までに合計一〇一名の従業員を新規採用した事実からしても、高年令労働者を地震を契機に低賃金労働者と切り替えることにあつたことは明白であり、労働者の人間性をみじんも認めようとしないものである。

以上のような諸事情を綜合すれば、本件解雇は解雇権の濫用であつて無効である。

(四)  帰休者選定基準およびその対象者選定の不合理性

(1) 帰休者選定基準の対象者選定経過の不合理性

被告会社は七月初め頃常務会において被告会社の再建にあたつては一造を廃棄する方向を決定し、それに伴う職制改訂の審議を行なつていたが、同月二七日臨時中生協の席上、組合に対し、一造の全面撤去、新潟工場の職制変更を提案し、翌二八日の中労協において「再建協力協定」および一造従業員中六号機復旧要員と他工場に転勤させるもの一〇〇名を除く五二七名に対し、八月一日から九月三〇日までの二カ月間激甚法適用により休業させることを組合に提案した。他方、被告会社は七月三一日常務会において、前記新潟工場における職制改訂に伴う新定員の最終決定を行ない余剰人員を算出していた。そして八月一日からの休業を強行した被告会社は引き続き同月六日の常務会で職制改訂に伴う人事異動の審議を経たのち、翌七日には常務会で人事異動の決定を行ない、この決定に基づき六号機運転に伴う休業解除という名目で新定員に伴う三〇〇名を超える人事異動を行ない、いわゆる「さしくり人事」を強行したのである。

右にみたような経過からすれば、被告会社が解雇の決意をした時点は遅くとも七月二七日の中生協において新潟工場の職制変更を提案したとき以前であるといわなければならない。既に述べたように、新職制による新定員については、労働協約第四〇条により、被告会社はあらかじめ組合に提示してその意思を徴すべき問題であつたが、被告会社は右協約を履行すれば、必然的に解雇の決意を組合に表明したことになり、第一次合理化の反対闘争にも優るとも劣らぬ組合の必死の抵抗をうけるであろうことを恐れたため、解雇問題を組合と協議することなく強行する手段として激甚法を悪用し、一造労働者を休業させることによつて解雇問題を休業問題にみせかけ、「六号機運転に伴う休業解除」という名目で「さしくり人事」によつて、実は解雇につながる三〇〇名余の休業者の人選を進めて行つたのである。その際、休業解除の具体的執行は新潟工場に一任されたが、その人選には基準らしい基準もなく、ただ被告会社の方針に従つて同工場が一方的に行ない、解雇したい労働者を「さしくり」によつて休業者として残した。結局、八月一日以降二カ月間にわたる休業の目的は、被告会社が解雇問題を組合の抵抗を排して一方的に強行することにあつたのであり、休業強行のときから既に活動家と中高年令労働者の排除を目的として合理的な基準もなく休業解除者(その裏腹の関係としての解雇者)の選定を行ない、結局、最終的に残された休業者の中から解雇者を選定した本件解雇は、その対象者の選択において合理性を欠くものといわなければならない。

(2) 帰休者選定基準の適用の非合理性

被告は、本件解雇を行なうにあたり、後述の帰休者選定基準を設定したうえ、まず帰休者一二九名を選定し、残余の一七四名は解雇者とした、と主張し、その適用の範囲を新潟工場旧一造地区勤務者で、昭和三九年九月三〇日現在休業中の者および公傷病、私傷病、組合専従者で休業にならなかつた者、すなわち人数としては三〇三名と定めたとしている。しかしながら、右の「基準」の適用に関する被告の主張は虚偽のものであることは明白である。

すなわち、まず、被告の右主張によれば、女子従業員についても右「基準」の適用に関しては何ら特別の扱いがなされず、男子従業員と同様に「基準」が適用されたことになる筈であるが、昭和三九年九月三〇日現在の「基準」第一項該当者は男女合わせて合計二〇名であつたにもかかわらず、実際に右の「基準」第一項が適用されたものは男子一四名だけであり、女子六名については適用されず、帰休者として選定されている。のみならず、前記三〇三名のうち女子三五名については右の「基準」は全く適用されなかつた(被告は当初女子三五名についても「基準」を適用したと主張しながら、本件口頭弁論終結直前の昭和四四年五月二七日第三一回口頭弁論期日の最終弁論において、女子については「基準」を適用しなかつたとして前記主張を変更しているが、このような重要な事実について本件口頭弁論の最終段階で主張を変更することには異議がある。)。

また、被告は、帰休者選定基準の適用にあたつては、昭和三九年九月三〇日現在における激甚法適用者(すなわち休業中のもの)の中から一二九名を選定し、残余の一七四名を解雇したものであり、右の一二九名と一七四名とは表裏一体の関係にあるものであると主張する。しかしながら、昭和三九年九月三〇日現在における休業中のものは、実際には三〇三名ではなく三三一名であつたのであり、被告会社は九月七日の提案において休業者三三一名のうち二八名について特別の扱いをなし残余の三〇三名についてだけ帰休者選定基準を適用したことになるのであつて、その提案は虚偽の内容のものであつた。

さらに、被告は、被告会社が九月七日提案した帰休者選定基準の対象者は、前述の三〇三名であり、それらのものに対しては、被告主張の帰休者選定基準が適用された旨主張するが、九月三〇日現在休業中の三三一名のうち昭和四〇年九月末日までに定年となる予定者男子九名、女子一名合計一〇名については全員解雇されている。すなわち、被告会社は定年予定者に対しては帰休者選定基準よりも優先して「高年令者で一年以内に定年となるものは解雇とする」という別の基準が適用されて解雇されたのであつて、かかる基準適用の恣意的運用はとうてい許されない。

のみならず、以上のような経過からすれば、被告会社が九月七日解雇の提案をした時点ではすでに休業者全体について右の「基準」と別個のなんらかの「基準」にもとづいて解雇者が選定され、その人名も内定していたものであることが窺われるのであつて、被告の主張する右の「基準」は、その適用前すでになされた基準なしの恣意的解雇の不当性を隠蔽し、あたかも公平に選定したかの如く見せかけるため、後日作成せられたものであつて、かかる恣意的解雇はとうてい許されないものである。

(3) 帰休者選定基準自体の不合理性

被告会社は右の「基準」によつて帰休者(及びその裏腹をなす解雇者)を選定したとするが、その主張する基準なるものは極めて不明確であり、矛盾にみちていて一貫性に欠け、かつ非合理的であつて、およそ基準というに値しないものである。すなわち、被告は、「基準」第一項は「再就職が容易である者」という立場から若年労働者を解雇する目的で設定したものであると主張するが、第二、三項では、逆に、社会通念上「再就職が困難である者」すなわち、病欠者、成績不良者等を解雇する立場から基準が設定されている。また、会社が被災後一貫して主張してきた「生産体制の確保」に必要であるとの立場からすればむしろ若年労働者は生産体制の確保に必要でこそあれ、何ら解雇の必要はない。このように、「基準」の第一項と第二、三項とは根本的に矛盾する立場から設定されており、その目的は一貫性を欠き何ら基準としての合理性が存しない。以下、「基準」の各項につきその非合理性を詳述する。

(i) 第一項の非合理性

右に述べたように、被告会社は第一項設定の理由として「若年労働者は再就職が容易である」と主張するが、このことと「若年労働者を解雇する必要性」とは別個の問題であり、およそ基準設定の理由としてはなりたたない。しかも、被告会社では、従来から、従業員の年令構成、人員構成が逆ピラミツド、すなわち、高年令者が多く、若年労働者が少ないという異状な状態となつていたため正常な方向への是正が叫ばれていた折でもあり、若年労働者を解雇することは被告会社の生産体制の確保にとつて著しい損失であつたばかりでなく、第一項に該当するものは、成績、健康、職場適性などの評価をうける資格や「基準」の但書の適用をうける資格さえも与えられず直ちに帰休者から除外されて解雇されるのであるから「基準」第一項は不当差別を前提としたものである。このように、「基準」第一項はきわめてまずい形の人員構成をさらに悪化させ、再建のための生産体制の確保に矛盾し、しかも設定の目的も見あたらない極めて不合理な「基準」であり、明らかに必要性なき解雇を強行するための「基準」というべきである。

(ii) 第二項の不合理性

被告会社の人事考課は何らの具体性もなく、主観と恣意によるものであり、採点基準も客観的に統一されていない。また、被告会社では、評定者の主観に基づいて人事考課が行なわれていることを前提として、職場の平均点をとつたが、それは各職場から均等な割合で解雇者数が出るというだけのことであつて、何ら主観的評価の調整にはならないものである。このように、評定者の主観と恣意による人事考課で労働者の生活権、労働権が左右されるならば「人事考課」という名目をとることによつていかなる労働者をも自由に解雇することができることとなるのであるから、このような基準による解雇は許されない。

(iii) 第三項の不合理性

「基準」第三項の設定目的は不明確であるばかりでなく、その適用にあたつては設定の目的と根本的に矛盾する結果を生ずる極めて不合理な「基準」である。

(イ) 職場適性

被告は「職場適性」設定の目的として、昭和四〇年一〇月に完成する新設備の稼働に適する職場を経験したものを優位とし、習熟や知識の必要度により職場に格差をつけて点数を設定したと主張しながら、他方、その適用については、昭和三九年三月三一日現在の職場を対象とするとして、矛盾する主張をしている。すなわち、会社の主張する「職場適性」とは、その職場に適するかどうかとか、習熟や経験度とは全然関係のないものであり、職場に格差のある評価点を設定し、たまたま昭和三九年三月三一日の一時点にその職場にいた者をその職場の評価点で採点するという、明らかに職場のちがいによる不当差別にほかならない。しかし、労働者は職場のちがいによつて会社から不当差別をうけなければならない理由は全く存在しない。被告会社においては、従来、職場への配属、転勤、転務、助勤等はすべて会社の命令によつてなされていたし、また、職場のちがいを理由として労働条件など従業員としての地位に差別はなかつた。すなわち、昭和三九年三月三一日現在における労働者の職場はすべて被告会社の命令により、その責任において配置されていたのであつて、それを理由として差別をするのは労働者への責任転嫁であり、「職場の評価点」による不当差別を「職場適性」にすりかえることは許されない。

(ロ) 健康度

健康度の設定目的が不明確であるばかりでなく、その適用においても、評価の主体、時点、方法など極めてあいまいであり、何ら客観性合理性のない基準である。

(ハ) 年令度

年令度の設定において、健康の面で低く評価した高年令者を、今度は再就職の難易、会社に対する貢献度などをとりあげて高く評価しているが、「再建のための解雇」との関連で、高年令者をどのように評価するのか何ら納得させるものもなく、ただ、第三項の中に混乱と分裂をもたらすだけであつて、とうてい合理的な基準とはいえない。

以上何れの点からみても本件解雇は違法かつ無効のものである。

四、(原告若林に関する被告の主張に対する認否)

(一)  原告若林が昭和四四年二月末日限り労働協約所定の定年に達したことは認める。

(二)  しかし、被告はその際定年に関する申出もなさず、これに関する諸手続(退職金、未払賃金等の清算、辞令交付等)もなさず、双方そのまま放置してきた。そして協約に定年の定めがあつても自動的に定年退職となるものではなくいわんや、退職金、未払賃金の清算もなく退職になるものでもない。労働契約は継続的な契約関係であり、これを終了させるためには明示の合意または意思表示を必要とするのであるから(民法六二九条参照)、被告の主張は失当である。

五、再々抗弁に対する原告の認否

(一)  原告らが本件解雇の期間中他に就職し、もしくは他の方法により別表記載の賃金の少なくとも四割以上の収入を得たとの点は否認する。すなわち、

(1) 原告三膳ほか四名が「電気工事業を自営し四割以上の収入をあげた」との主張を否認する。なお右原告らが闘争資金を得るため、電気工事のアルバイトを行なつたことはある。

(2) 原告渡辺ほか三名が長谷川商会にそれぞれ就職し、四割以上の収入をあげたとの点も争う。但し、長谷川商会は解雇反対労働組合の闘争を支持し、カンパをよせることもあるので、忙しい時などに同原告らが長谷川商会の仕事を手伝いに行くことはあつた。

(3) 原告新田見、本間、宮脇、小林(彦)、前田についても被告主張を争う。仮りに「収入」があるとしても、解雇反対闘争を続けるにあたつては解雇反対労働組合としても、各原告個人としても、有形無形の活動と、これにともなう闘争資金が必要であり、これを控除対象とされるべきではない。

(4) 原告若林につき、「露天商」は同原告の妻が行なつているものであり、同原告が時たま手伝うことはあつても同原告の「自営」とされるいわれはない。

(5) 原告島垣につき、「島垣車体製作所」は同原告の弟が以前から経営しているものであり、同原告の経営にかかるものではない。同原告は右製作所の繁忙期に闘争資金獲得のため手伝いに行くことがあつた程度である。

(6) 原告横山ほか六名が、専従手当を得ているとの主張を争う。生活保護は原告小林(昌)、同小林(進)、同横山、同鈴木がうけている。また解反労組に対し、他よりカンパがよせられているのは認める。

(二)  仮りに原告らに若干の金員の取得があつたとしても、それは原告らにとつて必然的に必要とされる解雇反対闘争のための資金を得るため一時的なアルバイトによつて得たものであつて、到底控除の対象となる「収入」とはいえないばかりでなく、仮りに右の収入金額が賃金の四割以上に達していたとしても、原告らの右収入は被告会社の故意過失責任もしくは原、被告間の雇傭契約関係とは別個の原因に基づいて得た労働の対価であるから、民法五三六条二項但書にいう債務を免れたことによつて得た利益とはいえない。

第三、請求原因に対する答弁および主張

一、答弁

(一)  請求原因事実について(原告若林については第一次請求)

請求原因事実の(一)、(二)および(三)はいずれも認める。また同(四)について、賃金および一時金の額ならびに右の各支払期日が原告ら主張のとおりであることは認める。同(五)の主張は争う。

(二)  原告若林に関する予備的請求について

同原告が右退職に伴つて受くべき退職金等および賃金、一時金の支給額について争わない。

二、抗弁

被告は原告らに対し昭和三九年九月三〇日付をもつて解雇する旨の意思表示をなした。右解雇の意思表示(以下本件解雇と略称する)は、昭和三九年六月一六日の新潟地震により被告会社が甚大な被害を受けたため、やむなくされたものである。

(一)  本件解雇にいたるまでの経緯

(1) 新潟地震による被告会社の新潟工場の被災損失額は一〇億八、三〇〇万円に達した。新潟工場のうち、二造は二酸化塩素発生装置を除き主要機器関係に顕著な損傷がなかつたので、道路専用側線、工業用配管の関連施設の復旧により、昭和三九年七月一三日から生産を再開した。これに対し、一造は壊滅的打撃を受け、二階据付の六号抄紙機を除きすべての製造設備、建物関連諸設備が傾斜、倒壊分断され、更に長期にわたり冠水浸油を受けた。そして六号抄紙機は据付直しを行ない八月三〇日から運転再開したが、その他の機械設備は廃棄されることとなつた。

(2) 被告会社は一造再建につき前記のように運転を再開した六号抄紙機を除き、破壊された二、五、七号抄紙機の一括又は部分的復旧をすべく復旧資金、復旧後の採算等の見地から検討したが、いずれも経営基盤を危殆に陥れるとの結論に達し、復旧を断念せざるを得なかつた。そこで被告会社は六号抄紙機を早期に二造へ移設することをきめ、一造地区の全面撤去の方針を決定し、九月七日新規増設を含む再建計画を樹立した。

(3) 再建計画に基づく人員配置計画

(i) 被告会社新潟工場の新潟地震被災直後の人員はつぎのとおりである。

男子     女子     計

一造   五六一名   九四名   六五五名

二造   五五五名   七四名   六二九名

計  一、一一六名  一六八名 一、二八四名

(ii) 右のうち、男子についてみれば、本件解雇時までに死亡者二名、定年退職者六名、計八名が減員となつた。

被災の約一ケ月後、二造従業員については全員職場復帰ができたが、一造従業員は七月中旬頃までに整理作業も終り、なすべき仕事がなくなつた。そこで、偶々激甚法の政令適用公示があつたので被告会社は同月末同法の適用を受けることを決定しこれにより八月一日から一造従業員のうち男子四三七名、女子九一名(計五二八名)を休業者として指名し、その後、逐時休業の解除を行ない、九月三〇日現在の休業者は男子二九九名、女子三五名計三三四名となつた。

(iii) 一方、被告会社は一造従業員の人員吸収の具体策をねつた結果、

(イ) これまで臨時工職場であつたカミールマシンを本工により運転することとし、その要員として二〇名

(ロ) ソ連材の販売を専門とする商材係を新設してその要員として九名

(ハ) 本社、市川、長岡工場等他の事業場の要員を増員した結果、その配置のための転勤要員二八名

計五七名が、新たな職場に吸収し得ることとなつた。

(iv) その間、被告会社は、前記再建計画を樹立し、右設備完成後の新潟工場における正常人員について検討した結果、男子七八一名、女子二〇三名、計九八四名が適正妥当との結論に達した。

(v) しかしながら、女子については九月三〇日までに二名が定年退職となる関係上、正常人員二〇三名から九月三〇日現在の在籍人員一六六名を控除した三七名が不足となつたが、男子については一、一一六名から前記(ii)記載の八名、(iii)記載の計五七名、(iv)記載の七八一名合計八四六名を差引いた二七〇名が余剰となることとなつた。

(vi) そしてその後、

(イ) 本来女子の職場である仕上包装作業を男子をもつてあてることとし、その要員として三二名

(ロ) 昭和四〇年一〇月までの新潟、市川、長岡各工場の定年退職予定者の事前補充として三三名、さらに新潟工場の昭和四一年三月までの定年退職予定者の事前補充として四名

(ハ) 新潟工場内の特定職場に定員外人員を暫定配置し、更に管理部門の強化のための暫定要員として一八名

(ニ) その他、組合専従、病欠者等が現状通りであると見込んで八名

右合計九五名をさらに吸収することとした。よつて、前記二七〇名より九五名を差引いた一七五名が最終的に余剰人員となり、これについては解雇するのやむなきに至つたものである。

(vii) よつて被告は男子の右余剰人員一七五名を後記解雇基準に従い、一造の男子従業員からのみ選定した。その理由は一造の生産設備が被災して復旧不可能となつたため右のような整理の必要が生じたのであるから、現に一造以外の他の工場に勤務する従業員をも整理の対象とすることは妥当ではなく、かえつて無用の混乱を誘発するおそれがあつたからである。

(二)  解雇基準(帰休者選定基準)

(1) 被告会社は左の帰休者選定基準を組合に提示して協議し、一造従業員で昭和三九年九月末現在休業中の者および公傷病、私傷病、組合専従等で休業にならなかつた者のうちから帰休者を選定し、残余の者を退職者とすることに決定した。

(i) 満三〇才以上の者(昭和九年一月一日生以降の者全員はすべて退職者とする。)

(ii) 満三〇才以上の者のうち、勤務成績が上位と判断される者(第一次帰休候補者)

(iii) 第一次帰休候補者について、職場適性、健康及び年令度を評価し、上位者より選定した者(帰休決定者)

但し地震により家屋が全壊した者及び扶養家族が多く生活上特に配慮を要すると認めた者は右(ii)、(iii)にかかわらず帰休者とする。

以上の基準に従い組合員一二九名が帰休者として選定され、一七四名が解雇者とされた。

(2) 帰休者選定基準により解雇された組合員は(i)によるもの一四名、(ii)による者一一二名、(iii)によるもの四九名である。

なお、基準(iii)の職場適性の順位は次のとおりである。

〈1〉最上位 洋紙抄紙係

〈2〉上位  板紙抄紙、紙料、製品、倉庫、原木、汽罐、動力(浄水を除く)工作、SP係

〈3〉中位  砕木、調木、試験、浄水係

〈4〉下位  配給、仕上係

基準(iii)の健康度は強健を上、普通を中、病弱者(肺結核、高血圧の要注意、要観察、要治療者)、障碍者(矯正不能の不良視力、手指足の故障)、五〇才以上の高令者を下とし、年令度は高令者につき再就職の困難性、会社に対する貢献度を勘案し一律に五〇才以上は配慮した。

(三)  原告らは帰休者選定基準の各項により帰休者とならずに解雇された者であつて、その該当項目は別紙解雇基準項目別被解雇者氏名目録記載のとおりである。また、原告らに対する帰休者選定基準(ii)(iii)の具体的適用については、次のとおりである。

(1) 「帰休者選定基準」適用の方法

帰休者選定基準第二項に掲げる「勤務成績」並びに第三項に掲げる「職場適性」「健康」及び「年令度」の各評価についてはそれぞれ左のとおり「評価要領」を設定し、これに基づいて厳正かつ公平に前記項目を評価したものである。

(i) 勤務成績(評価点数二〇点満点)

被告会社は従来より毎年二回客観的な基準で人事考課を実施してきているので、従業員の勤務成績判定については客観的かつ合理的な資料を保有している。よつて帰休者選定基準第一項を適用した結果残つた者を対象として本項を適用し右人事考課の結果勤務成績の良い者を第一次帰休候補者として選定した。ふえんすると左のとおりである。

(イ) 過去三カ年間(昭和三六年度~三八年度)の各人の人事考課の点数を役付者、一般者毎にそれぞれの課、係等本人が所属していた職場の平均点数と比較して、各年度ごとに左の通り評価し、その合計を年平均(小数第二位四捨五入)したものを勤務成績の評価点とする。

+三・一点以上 二〇点 +一・一点以上三点迄  一七点

+-一点迄   一四点 -一・一点以下-三点迄 一〇点

-三・一点以下  七点

但し、毎年度の本人の人事考課の点数がマイナスでありかつ所属職場の平均点数と比較してマイナス八点以下の場合、当該年度の評価点は四点とする。

役付者については一般者に比較すれば優秀と認め各年度ごとに二〇点を超えない範囲で五点を加算する。

(ロ) 被告会社の人事考課は、観察項目が一般者は九項目、役付者は一一項目に分れ、各項目とも基準たる普通のものを七点、最高点を一〇点とし、各項目にウエイトをおき、右ウエイトを乗じた合計点を各人の取得点数としている。そして本件において(イ)記載の+-の点数は、右により各人が具体的に取得した点数と、基準たる各項目七点を得た場合との点数の差を、上期、下期につき平均し、さらに同様の方法により算出した職場の平均点数との差である。

(ii) 職場適性(評価点数二〇点満点)

帰休者選定基準第二項の勤務成績は、前記のとおり人事考課によつて決定したが、習熟や知識が必要な職場と比較的単純な職場とが全く同一視されることは適当でない。これを避けることと、さらに昭和四〇年一〇月に完成する新設備の稼働に適する職場を経験したものを優位とすることは必須の判定基準であつた。しかしながら、たまたま職場が最適であるという理由だけで勤務成績の不良な者が不適職場の勤務成績良好なるものより優遇されることは適当でないので、まず、帰休者選定基準第二項によつて各職場内において勤務成績の不良な者を除外することとし、残つた者について職場適性を含めて判定を行なうこととしたものである。しかして職場適性の評価の順位を述べると次のとおりである。

洋紙抄紙係

二〇点

板紙抄紙、紙料、薬品、製品、倉庫、原木、汽罐、動力(但し、浄水を除く)工作、亜硫酸パルプ係

一五点

砕木、調木、試験、浄水係

一二点

配給、仕上係

一〇点

なお、右は三月三一日現在の職場を対象とするが、同日以降震災までの間に異動があつて、異動後の職場の点数が異動前の職場の点数より多い場合は、異動後の職場を対象とする。

(iii) 健康(評価点数二〇点満点)

健康の評価要領設定に当つての被告会社の考え方は前に述べたとおりであるが、その評価点数は、左のとおりである。

基準としては普通者は一四点とし、強健の者は、これに五点以内を加算し、病気、障碍等のある者は、一四点から次の如く減点する。

肺結核 要注意 要観察   一二点

高血圧 要治療       一二点

要注意       一一点

要観察は減点しない

長欠者は事由により             一三点以内

隻眼及び裸眼視力頗る不良でかつ矯正不良の者 一二点以内

指、手、足等の障碍者            一三点以内

五〇才(昭和三九年一月一日現在で算定)以上の者は体力的にみて二点を減点する。

なお、要注意、要観察、要治療の認定は、工場の健康管理基準による。

(iv) 年令度(評価点数一〇点満点)

年令度の評価要領設定に当つての被告会社の考え方は前に述べたとおりであるが、評価点数は左のとおりである。

五〇才以上 一〇点

五〇才未満 七点

なお、右年令の算定は昭和三九年一月一日現在とする。

(2) 被告会社は、前項説明の「評価要領」に基づき適正に評価した点数を基礎として「帰休者選定基準」を適用の上、帰休者と退職者を選定し、退職該当者一七四名に対し、九月三〇日付で解雇する旨通告した。

その後組合との折衝の結果、一一月一三日に右一七四名に対し同月一八日までに退職願を提出すれば依願退職として取扱い、退職条件につき優遇する旨通告した。その後さらに右期間を同年一二月五日までに延長した結果、一四二名が希望退職届を出したので、原告らを含む三二名のみが解雇者として残つた。そして被告会社は退職者の再就職等に非常な支障を生ずることを慮り組合との交渉経過においても外部に対しては、新潟地震によつて働く職場がなくなつたので本人には何らの落度はないが、退職してもらうことになつたものであるということにしたいので解雇理由別氏名の発表を行ないたくないと組合に諒解を求めた経緯もあり、その該当理由を発表しなかつたことによつて再就職上極めて有利であつた者が相当数存した事実もあつた。さらに現在新潟工場に復帰している者の中には帰休者選定基準末尾但書の適用によつて帰休者となった者もある。しかして原告らについての帰休者選定基準第二項、第三項に関する具体的解雇理由は次のとおりである。

(3) 帰休者選定基準第二項により解雇された原告

(i) 被告会社は、勤務成績を前述の(1)の(i)により評価した結果、三ケ年間の平均評価点数が一〇点以上の者を第一次帰休候補者とし、一〇点未満の者は帰休者選定基準末尾但書に該当した者を除き一律に帰休者より除外した。

(ii) 左記原告ら八名は右除外の結果、解雇されたものであつて、その評価点数((1)の(i)の(イ)による)は左のとおりである。

(△印はマイナス)

職場実施考課

氏名

各人の人事考課

職場の平均点数

評価点数

三六年

三七年

三八年

三六年

三七年

三八年

三六年

三七年

三八年

平均

電気

三膳博

△五・三

△五・三

△三・三

〇・八

〇・三

〇・八

砕木

宮脇孝平

△三・五

△三・五

△四・三

五・九

四・六

五・七

砕木

小林彦栄

△〇・五

五・九

四・六

五・七

二抄

渡辺昭衛

△一・五

△四

△二

三・二

二・九

三・九

六抄

前田長栄

△〇・五

一・三

二・五

二・九

三・一

三・八

一〇

一〇

三抄

新田見長吉

△一・五

△〇・五

一・〇

二・八

二・七

一四

九・三

試験

高橋秀男

△一・三

一・〇

二・八

六・三

四・四

四・三

一〇

(4) 帰休者選定基準第三項により解雇された原告

(i) 本項により評価した結果と第二項の勤務成績の評価との合計評価点数の多い者から順次に男子組合員八九名を選び、それに帰休者選定基準末尾但書該当者六名を加えた九五名を帰休者とした。

その結果合計評価点数で五〇点未満の者は帰休者選定基準末尾但書該当者を除き帰休者より除外した。

(ii) 左記原告ら九名は右除外の結果解雇されたものであつて、その勤務成績、健康、職場適性、年令度の各評価点数および合計評価点数は、左のとおりである。

氏名

勤務成績

健康

職場適性

年令度

若林正平

一三・七

一二

一〇

一〇

四五・七

本間新二

一一・三

一三

一五

四六・三

木山修吾

一六・〇

一三

一二

四八

島垣光雄

一〇・三

一四

一五

四六・三

渡辺栄之進

一〇・〇

一三

一五

四五

沖村富蔵

一一・三

一二

一五

四五・三

古川吉治

一〇・三

一四

一五

四六・三

杉原彰

一二・七

一二

一二

四三・七

三、再抗弁に対する答弁

原告ら主張の事実中、被告会社と組合との間に原告ら主張の労働協約が締結されており、原告ら主張のような協約条項が記載されていること、被告会社では激甚法の適用により八月一日から一造の一部従業員について休業の措置をとつたこと、それより以前の七月二九日被告会社では右の休業となる従業員に対して休業通知書を発送したこと、その後六号機の運転再開に伴い、その運転要員として休業を逐次解除し就労させたが、その際必らずしも元の職場への復帰ではなく他の職場関係者の中からも被告会社において指名したものをもつてこれにあてたこと、被告会社では九月七日組合に対し口頭で解雇の提案をなし、同月二二日に帰休者選定基準を文書で提示して協議したが、翌二三日右協議は決裂したので、二四日に被解雇者に対して解雇通知書を発送したこと、本件解雇の対象者は休業中の一造の従業員のみであつたこと、および被告会社では昭和四一年四月までに合計一〇一名の従業員を新規採用したことは認めるが、本件解雇は、協議義務に違反し、不当労働行為に該当し、あるいは権利濫用として無効であるとの主張は争う。

四、被告の主張

本件解雇は被告会社としては予知することが全く不可能な新潟地震のため、一瞬にして多数の従業員の職場がそのまま再建できぬまで破壊されてしまつたこと、被告会社はそのため設備を失い同時に生産に著しい減少をきたし莫大な損害をこうむつたこと、被告会社としてはこの被害から早急に立ち上らなければ企業の存立自体危険であつたことなどの諸事情の中で行なわれたことに著しい特殊性を有している。従つて本件解雇の正当性、合理性を判断する場合、右の特殊性を充分考慮すべきは当然であり、それと地震時における被告会社のおかれた困難極まりない、また混乱していた状況を無視しては、本件解雇をめぐる諸問題について、具体的事案の判断として正当な結論を下し得ないことはいうまでもない。原告らは、本件解雇は不当労働行為ないし労働協約違反であつて無効であるとか解雇権の濫用であるなどと主張するが、被告会社が本件解雇時おかれた右の特殊な状況に照らして考えるならば、これらの主張はいずれも不当であり理由なきものである。以下、被告の主張を詳述すると次のとおりである。

(一)  「労働協約、労使慣行上の協議義務違反」について

原告らは本件解雇について組合と協議を尽していないので労働協約に違反し本件解雇は無効であると主張する。しかし、協議が尽されたか否かは、当時の時間的状況および客観的な解雇の必要性等諸般の事情を勘案して判断すべきところ、被告会社は以下に述べる如く本件解雇ならびにそれに至るまでの経過において誠意をもつて右組合と協議義務を尽した。しかも、右組合は最終的には協議の打切りを宣言し自ら協議権を放棄したものであるし、仮りにそうでないとしても右組合の解雇絶対反対のかたくなな態度は被告会社との協議の余地を与えなかつたものである。

(1) 新潟工場では七月中旬以降は復旧作業もなくなり、一造の従業員の労務を受領する職場は六号機の復旧要員や警備の一部を除き存在しなかつたため、被告会社は一造の組合員五二四名に対し八月一日から九月三〇日まで激甚法の適用をうけ、在籍のまま休業することとした。この点について原告らは激甚法の適用は労働組合との協議なしに一方的になされたと主張するが、被告会社は七月二七日中生協において右適用を受ける旨の方針を説明し、翌二八日には組合本部と協議を行ない、その結果組合は同月三〇日激甚法の適用を認める旨回答してきた。被告会社は組合の右回答に先立ち、同月二九日に激甚法の適用による休業の通知を発送したが、これはすでに組合との協議後のことであり、かつ組合が同法の適用を承認すると判断されていたからにほかならず、いずれの点からするも、被告会社の右措置は本件解雇に何らの影響をもおよぼすものではない。

(2) その後被告会社は六号機運転要員等を確保するため休業を解除するに際し、六号機以外に勤務していたものにも就労の機会を与えたところ、原告らは被告会社の右措置を協約違反の「さしくり人事」であるとして非難する。しかし、この点については組合の新潟支部において問題としたにすぎない。被告会社と組合本部との間では、七月三〇日の中労協において、組合から休業を解く場合には組合と協議されたいとの発言がなされたが、被告会社においてはこれを容れず、組合または支部に休業解除の日時、氏名、復帰職場等を話した上で実施する旨回答し、右組合もこれに同意したものである。のみならず、経営者としては天災によつて一部の労務が受領できなくなり復旧が長期にわたる場合、いかなる職場のものを休業にするか、あるいはいかなる必要に応じ、いかなる職場に復帰させるかの決定は使用者の自由というべきであるところ、被告会社は復帰職場の代替性、新設備ができるまでの期間等の事情を考慮し、かつ各職場における出勤の機会均等などの点について考慮したうえ、逐次休業解除を実施したものであつて、被告会社のかかる措置は正当かつ合理的というべきである。

(3) 本件解雇をめぐる協議経過をみるに、九月四、五両日の被告会社の常務会において解雇が決定されるや、翌六日には被告会社本社勤労部長、同副部長は事前説明のためわざわざ市川工場に労働組合を訪問して同組合委員長、副委員長に口頭でその内容を説明し、翌七日の団交において右組合が充分この提案に対処できるよう配慮した。そしてその後同月七、八、一七、一八、一九、二二日の延べ六日間にわたり本件解雇をめぐる団交が開かれた。しかも右団交以外にも三役交渉等が行なわれ、被告会社から右提案に関する詳細な説明もなされたが、この間労働組合側からは被告会社の提案については何ら具体的提案がなく、同月一九日に至り、とりあえず同月三〇日の退職日を延期されたい旨の発言があつたのみであつた。

組合側の右延期の申入れは、第二二回定期大会を控え、右大会において本件解雇問題を討議するが如く、またそれによつて具体案を出すが如くにもとれるが、右組合としては一方で退職日の延期を主張しながら同月二八日から三〇日にかけて開催される右大会においては解雇絶対反対、会社提案の全面撤回を要求する議案書を提出していたのであるから、右組合の延期申入れは強力な闘争を組むための時間稼ぎであつて、被告会社の提案を誠意をもつて協議しようとする態度ではなく、被告会社としても解雇日を延期しなければならない理由もなかつた。しかして右組合側は解雇期限の同月三〇日までまだ日数があつたにも拘らず、それ以前の同月二三日「交渉は決裂したことを表明しておく。」として協議打切り宣言をなし自ら協議する権利を放棄するに至つた。

原告らは、九月七日における被告会社の提案はその休業人員の点において虚偽の内容であつたばかりでなく、帰休者選定基準自体あいまいであつて誠意をもつて協議するというものではなかつたと主張するが、被告会社が当初口頭で右基準を提案したのは労働組合から充分意見をきいた上で文章化したいとの考えによるものであり、また協議内容についてもその後具体的な解雇人員、解雇基準および退職条件等を示して説明し、組合をして完璧に近い提案であるとまでいわしめたのであるから、被告会社の協議態度には非難さるべき点は全く見当らない。なお、附言するならば、本件解雇の提案時においては帰休者、解雇者数のみが提示され、一〇月一日の出勤者一七名、転勤者一一名(但し、管理者を除く計画数字)合計二八名の数の提示がないが、これは右提案が「新潟工場休業者の昭和三九年一〇月一日以降の取扱いに関する件」とあるように、一〇月一日以降帰休になるものおよび解雇になるものの取扱いを提案した結果の当然の措置というべきであつて、何ら虚偽の員数ではない。

また、右協議においては組合側が一時協議を自ら打切つたが、その後一二月一五日本件解雇については結局協議が成立しているので、この点からするも被告会社において協議を尽さなかつたとの主張は理由がない。

(二)  「不当労働行為」について

(1) 原告らはまず本件解雇のねらいは被告会社が体質改善合理化を遂行するため労働組合のうち強固に抵抗する新潟工場一造の職場組織を破壊することにあつたと主張するが、本件解雇が一造の従業員のみを対象としてなされたのは、一造が地震で壊滅的な打撃を受け単純復旧が不可能であつたためその職場がなくなつたのに対し、被告会社の市川、長岡各工場および新潟工場二造における残存生産設備を最大限稼働させることなくしては被告会社の再建は緒につき得なかつたことによるものであつて、この間いささかも一造地区労働者の団結について云為する余地の存しない性質の措置であつた。なるほど一造地区の労働者は他の工場労働者と異なり、大衆路線を唱え、被告会社に対し職場要求、課長交渉等をしたことは認めるが、それは第一次体質改善計画が一造設備の改造に主眼をおいていたため必然的に一造の労働者の労働条件に影響をおよぼすこととなつたからである。しかし右の大衆路線ないし職場交渉等の実体は被告会社に対し報復措置を考慮させるような影響力があつたとは認められなかつたばかりでなく、被告会社においは一造の労働者の団結が他職場の労働者のそれよりも強大であつたという印象は少しも受けていなかつたのであるから、一造の職場組織を破壊するために本件解雇がなされたとする原告らの主張は理由がない。

(2) 原告らは本件解雇は組合活動家の排除が目的であつたと主張するが、新潟地震当時、原告らのうち活動家と称すべき支部常任委員以上の役職についていたのは、原告木山修吾、同小林昌夫の両名だけであり、過去の経験者としても原告三膳博、同岩橋孝平、同細野正幸の三名を数えるにすぎない。地震当時における一造選出の評議員数は二二名、常任委員数は七名であつて、そのうち解雇されたのは評議員七名、常任委員二名にすぎない。これに対し解雇されない者についてみれば、地震以来休業にならなかつたもののうちに評議員四名、常任委員二名がおり、休業を命ぜられたのち解除になつた者のうちには評議員五名、常任委員五名があり、帰休者選定基準適用の結果、解雇にならなかつた者のうちには評議員六名、常任委員一名、本部役員一名がいたのであるから、これらの点からしても被告会社が組合活動家たる役職者を特に排除するために本件解雇を行なつたとの主張は理由がない。また、九月七日被告会社が口頭で提示した解雇基準は正当性、合理性を持つものとして組合に対し説明したものであつて、その際の片言隻句をとらえて不当労働行為意思ありとすることは妥当ではない。

(3) 被告会社は昭和三九年一〇月一日から同四一年四月までに一〇一名の従業員を新規採用し、二二名の臨時作業員を新潟工場に採用したことは認めるが、右人員の採用は被告会社においてその時点に特に必要な、従つて原告らとは代替性のない幹部要員、技術要員等いずれも必要最少限の人員を採用したに過ぎず、被告会社は当初再建計画中に示した以外の施設を設置しながら、解雇時の在籍従業員数に比べ昭和四三年一〇月現在人員数は三〇八名減となつている。従つて、一部新規採用したことをもつて解雇理由に矛盾が認められるから本件解雇は不当労働行為であるという原告らの主張は、右に述べたように、在籍従業員数が減少している事実ならびに新規採用者と原告らとの間に代替性が存しないという事実を看過したものであつて理由がない。

(4) 原告らは、被告会社は本件解雇実施の過程において所謂「さしくり人事」「こま切れ就労」を行なつて労働者の離間をはかり、一方的に指名通告を強行したのは不当労働行為であると主張するが、被告会社が組合に対しその支部間の離間をはかるが如き言動をなした事実はなく、また一造の労働者に対してもことさらその離間をはかるため休業通告ないし解雇通告をなしたのでもないから、本件解雇により、解雇された者の出た職場とそうでない職場があつたという結果のみをとらえて被告会社に労働組合に対する不当労働行為意思ありとするのは当らない。被告会社の行なつた休業解除すなわち所謂「さしくり人事」「こま切れ就労」は被告会社のおかれた当時の状況からみて、再建のため合理的かつ最短の方法であつた。

また、原告らは本件解雇に際し希望退職を募らなかつたのは解雇権の濫用であると同時に不当労働行為にも該当する旨主張するけれども、そもそもどのような労働力を確保するかということは企業にとつて自由であるというべきところ、新潟地震によつて一造に壊滅的打撃を受け早急に再建計画を樹ててこれを実施に移さなければその存立さえ危うかつた被告会社にとつては、希望退職を募ることによつて従業員の過不足、入れ替えが行なわれることは生産体制に重大な支障を来すことは明らかであつたのであるから、被告会社において希望退職を募らなかつたのは専ら会社の存立そのものを考慮しての措置であつて、特定の活動家を排除するためのものではなく、従つてかかる措置をもつて、不当労働行為意思ありとはとうていいい得ない。

従つて、いかなる点からするも、本件解雇は被告会社の不当労働行為に該当するという原告らの主張は理由がない。

(三)  「解雇権の濫用」について

(1) 被告会社の経営基盤は、昭和三三年に解雇等を含む体質改善を行なつたのちにおいてもなおかつ甚だ弱く、市況はもとより雪害等によつても利益が大きく左右され決算面も非常に苦しかつた。昭和三三年四月三〇日現在約一〇億四、四〇〇万円の利益剰余金と一億八、四〇〇万円の未処分利益剰余金があつたのに二年後の昭和三四年四月三〇日現在では、不動産売却等約三億三、五〇〇万円を食いつぶして、なお、利益剰余金はわずかに一億七、七〇〇万円しか残らず、被告会社の経営は極度に悪化し、深刻極りないものとなつた。そのため被告会社では昭和三三年上期から昭和三四年下期まで四期連続無配を続ける状態であつたが、昭和三四年下期には経済市況の安定、生産能率の上昇等のため四期ぶりに約五、一〇〇万円の利益を計上することができ、その後の連続黒字決算という背景のもとに経営基盤確立のための新規計画の一部として総予算一三億円で市川工場コーテツド白板抄紙機建設が実現の運びとなつた。しかし、このようにやや明るくなつた見通しも市況の変動や雪害のため当初の見込利益を大幅に割つてしまうという経営基盤のもろさをさらけ出してしまう状態であつた。被告会社としてはこうした体質を改善するためいわゆる二目標九方針を示したが、具体的な設備計画を設定するに至らなかつたし、長期計画遂行のための資金獲得の方法として、昭和三五年上期にようやく五分配当を復活し、その後細々と八分配当を続けていた中で、大胆にも増資に踏み切つたけれども、不況は紙パ産業全体をおおい、そのため被告会社においても減配及び株価の暴落の余儀なきに至り、当面の経営目標は赤字決算の防止と不渡手形を出すことの回避という全く切迫した非常事態を迎えたのである。ちなみに、昭和三三年上期から昭和三八年上期までの被告会社の利益、配当金を示せば、左のとおりである。(千円未満切捨て、△印は損)

年度       営業外利益       最終損失    配当

昭和三三年上期  一五七、八〇九千円 △三八〇、五四二千円   〇

同年下期     二一四、四〇二   △二九三、一〇五     〇

昭和三四年上期  一七六、二七二   △一八九、四〇六     〇

同年下期      七一、〇九七     五一、一二五     〇

昭和三五年上期   九四、〇六八     五三、一五〇   年五分

同年下期      七九、三七七     八五、五五二   年八分

昭和三六年上期   九四、一六八     七一、七九三   年八分

同年下期      八二、一三七     八三、五〇五   年八分

昭和三七年上期   九五、一一一     八一、三三九   年六分

同年下期      九六、七二三     六三、三〇九   年五分

昭和三八年上期  二五五、三二二     二〇、三〇五     〇

こうした中で昭和三八年上期の中生協において、いわゆる二目標九方針を具体化した第一次体質改善計画が提示され、そのための具体的な設備計画として、新潟工場一造の改造と市川工場五号機の新設を二本の柱としその附帯設備を含む設備の合理化を図るために、新潟工場では六号機を改造し、新聞紙をやめて上・中質紙に転換し、七号機は全面的に故紙を使用するための処理設備の増強と老朽な部分に手を加え、一造、二造間の流送設備と集中叩解を図る原料調成部門を作ること、三号機を停止するということであつて、旧一造についていえば、その中にある設備を充実強化してゆくことに主眼があつた。

かくして一造にあつた六号機の改造を終え、昭和三九年六月一〇日試運転に入り、第一次体質改善計画の実施が完全に行なわれるに至り、今後その成果に被告会社の命運のすべてを託していた矢先の同月一六日新潟地震が発生したのである。この地震によつて被告会社新潟工場旧一造が受けた被害は六号機を除いてまさに壊滅的なものであり、被災損失額は一〇億八、三〇〇万円の多額にのぼつた。すなわち、二造はおおむね顕著な損傷はなく、床面、基礎、配管関係の修復を要する程度であつたが、道路、専用側線、工業用水管などの関連施設などに甚しい損害をこうむり、また防潮堤決壊により原木土場は冠水し、被災後約一カ月休転するのやむなきに至つた。また、一造はすべての製造設備、建物関連諸施設が傾斜、倒壊、分断せられ、更に長期にわたり冠水浸油の状態にあつたため、六号機を除き他はそのままの形ではとうてい使用することは不可能の状態であつた。そのため、六号機は休転期間二・五カ月を経たのち八月三〇日運転開始したが、二、五、七号機ならびに関連施設については単純復旧の方針をとり得ず設備廃棄を決定するのやむなきに立ち至つた。さらに、冠水、浸油により製品、パルプ、原木、その他の資材に多額の損害をこうむり、また、ワイヤ、フエルト、カンバス類の抄紙要具にも著しい損傷を受けた。

しかし現実に新潟地震によつて被告会社が受けた損害は右の損害にとどまらず、更に大きなものである。ちなみに被告会社の昭和四〇年上期の欠損金は一億一、六四九万三、〇〇〇円、同年下期のそれは一億四、五四一万八、〇〇〇円であつて、昭和四一年上期の利益金四、一九八万八、〇〇〇円を差引いてもその合計損失は二億一、九九三万円となるが、右の数字すら組合との間に再建協力協定を締結して非常時体制をしいての生産能率の向上、経費の徹底的節減および土地その他の資産の売却による四億六、三三三万八、〇〇〇円の節約ならびに特別利益を計上した後のものである。

(2) このような被害に対し被告会社新潟工場では地震直後非常事態宣言をなし、緊急対策本部を組織して排水作業、従業員の救援作業等をなし、六月二七日には被告会社の最高技術会議を開催して二造の速やかな復旧、一造設置の比較的被害の少なかつた六号機の運転再開を決定指示し、その結果二造は七月一三日、六号機は八月末操業に入つた。しかしながら、一造に設置してあつた二、五、七号機については、一括復旧する場合一〇億〇、一二〇万円の経費を必要とするにも拘らず、生産再開後には、右投資により増額する減価償却費、租税公課等を含めると、年間実に三億五、九〇〇万円の損失を計上しなければならず、後述する被告会社の過去の決算実績によると、右の如きぼう大な損失を他の設備による生産によつて補填することは企業自体として甚しい重荷となりとうてい不可能であつたばかりでなく、調査結果によれば、一造の地下は完全なヘドロ状態であつて、ここに今後新潟地震程度の地震を予期して二、五、七号機のような重装備を設置する工場を建設するためには二〇メートル近くパイリングしなければならず、復旧経費は前記金額をはるかに上回ることは当然であつた。かくして被告会社は二、五、七号機の廃棄を前提として地震後経営者としての新たな観点に立ち採算を考えて設備計画を検討した結果七月二七日開催された昭和三九年下期中生協において、復旧資金五九億円をもつて二造に一四七吋中質紙マシンおよび一四五吋オフコーターを増設すること、BKP増設工事、一造から二造への六号機の移設、勝田計画の推進、二、五、七号機の単純復旧の断念ならびに一造、二造の区別を廃止して新潟工場を統合し、これに基づく職制変更等を内容とする再建計画を提案した。

この点、原告らは再建計画は第二次体質改善計画の早期実現であり、地震を悪用した合理化であると主張するけれども、そもそも第二次体質改善計画なるものは右再建計画提案時にはいまだ確定したものとしては存在せず、いわば星雲状態のようなものであつて直ちに実行し得る具体的内容に欠けていたものであるから、原告らの右主張は失当というべきである。

(3) 新潟工場では七月中旬以降は、一造の従業員の労務の提供を受領する職場は六号機の復旧要員や警備の一部を除き存在しなかつた。そこで被告会社は七月二七日には中生協において、翌二八日には組合本部との間において、それぞれ激甚法の適用を受けることについて説明と協議を経た上、原告らを含む一造地区の組合員五二四名に対し八月一日から九月三〇日まで同法の適用を受け、在籍のまま休業することとしたものである。その後被告会社は六号機運転要員等を確保するため休業を逐時解除し、その際六号機以外に勤務していた者にも就労の機会を与えたのであるが、原告らは被告会社のかかる措置を指して「さしくり人事」であるとして非難する。しかしながら、天災によつて一部のものの労務の提供が受領できなくなり、復旧が長期にわたる場合労務提供の受領ができなくなつた職場のもののみを休業とするか、あるいは必要に応じ他の職場のものと代替してゆくかは経営者たる使用者の自由に委ねられているというべきである。殊に、被告会社の場合、その職場の性質上代替性があり、職場復帰できるのは新設備ができるまでの長期間を要すること等の特殊事情が存するのであり、かかるときたまたま職場が存続したか否かにより機械的に休業者と非休業者とを区別することは問題があり、かえつて各職場に出勤の機会均等を与える方が労務管理としても適切であるとの合理的な配慮に基づいてなされたものである。

(4) 解雇の必要性がある場合、右解雇が不当労働行為にも該当せず、かつその他の法規・労働協約・就業規則等に違反しない限り、使用者は労働者を解雇することは当然許されるものといわなければならない。そしてその場合、企業としてどのような労働力を確保するかは企業にとつて自由であるから、あらかじめ希望退職者を募るということも必要ではない。殊に本件解雇の場合希望退職を募ることによつて転勤、配置転換、欠員等の問題を惹起し、他工場の生産体制に重大な支障をきたし、再建計画の実行も遅れ、ひいては被告会社の存立を脅かす結果となりかねなかつたのであつて、被告会社としてはかかる希望退職者の募集という措置に出ることはとうていできなかつた。

よつて、右に述べたようにいかなる点からするも、本件解雇は権利の濫用に該当せず原告らの主張は理由がない。

五、原告若林に関する仮定的主張

原告若林に関し、仮りに本件解雇が無効であるとしても、被告会社と組合間で締結された労働協約四五条、四七条によれば被告会社においては満五五才六カ月となつた日を含む月の末日をもつて定年退職することとなつているところ、右組合の組合員である同原告は、昭和四四年二月末日をもつて満五五才六カ月を経過したのであるから、同原告は被告会社の従業員であることの確認を求める利益はなく、かつ、同年三月以降の賃金の請求も許されない。

六、再々抗弁

仮りに本件解雇が無効であるとしても、原告らは本件解雇後、あるいは他に勤務し、あるいは自営、行商等により相当の収入を得ているものであり、これは民法五三六条二項但書にいわゆる「自己の債務を免れたことに因りて得たる利益」に該当するから、原告らの本訴請求金額は労働基準法二六条の規定の趣旨に則り、四割を限度として減額さるべきである。

(一)  原告三膳博、同渡辺栄之進、同沖村富蔵、同高橋秀男、および同木山修吾は、昭和四一年八月ころ以降(但し原告沖村富蔵は昭和四二年初め、同高橋秀男は昭和四一年九月ころ以降)現在に至るまで、電気工事業を自営し、よつて別紙賃金請求明細表および一時金請求明細表(以下別表と略称する)記載の賃金の少なくとも四割以上の、

(二)  原告新田見長吉は新潟市本町一一番町所在の菓子問屋金沢商店等に昭和四一年七月ころより就職し現在に至り、別表記載の賃金の少なくとも四割以上の、

(三)  原告渡辺昭衛、同細野正幸、同古川吉治、同杉原彰は新潟市笹口所在の配管業等を営む株式会社長谷川商会に各就職し(原告杉原彰は昭和四一年一一月ころより、他の原告は昭和四二年四月ころより)現在に至り別表記載の賃金の少なくとも四割以上の、

(四)  原告若林正平は草花の露天商を昭和四一年五月ころより現在に至るまで自営し別表記載の賃金の少なくとも四割以上の、

(五)  原告本間新二は昭和四〇年五月ころより現在に至るまで新潟市東入船町所在の株式会社山治鉄工所に勤務し別表記載の賃金の少なくとも四割以上の、

(六)  原告宮脇孝平は新潟市女池所在の新潟運輸建設株式会社に昭和四〇年九月ころより現在に至るまで勤務し別表記載の賃金の少なくとも四割以上の、

(七)  原告小林彦栄は昭和四〇年一〇月四日ころより新潟市船江町一丁目所在の遠藤鋼材株式会社に、ついで昭和四二年八月ころより現在に至るまで新潟市湊町二丁目所在の京浜鉄木工株式会社に勤務し、別表記載の賃金の少なくとも四割以上の、

(八)  原告前田長栄は昭和四一年四月より新潟市藤見町二丁目所在の石井精密株式会社に、ついで昭和四三年二月九日より現在に至るまで新潟市上大川前通九番町所在の新潟ビルデインクサービス株式会社に勤務し別表記載の賃金の少なくとも四割以上の、

(九)  原告島垣光雄は昭和四二年三月ころより現在に至るまで訴外実弟島垣又男と共に新潟市大形本町所在の島垣車体製作所名義の板金業を営み別表記載の賃金の少なくとも四割以上の

各収入を得ていた。

(一〇)  原告横山豊、同岩橋孝平、同小林進、同伊藤善隆、同小林昌夫、同国分重剛、および同鈴木治雄の七名は、本件原告らで組織するいわゆる解反労組の専従者として右労組から毎月相当額の専従手当を支払われるほか、新潟市、あるいは新津市からそれぞれ生活保護法による生活扶助を受けているほか右原告らは協力してチリ紙等の行商あるいは資金カンパ等により相当の収入をあげているので、その全部を本件訴訟遂行の経費に充当したとしても、専従者たる右原告ら七名はいずれも別表記載の賃金の少なくとも四割以上の収入を得ているものである。

よつて、原告らの請求金額はいずれも四割を限度として減額さるべきである。

第四、証拠関係〈省略〉

理由

第一、請求原因(一)ないし(三)の各事実は当事者間に争いがない。

第二、そこで本件解雇の効力について判断する。

一、本件解雇に至るまでの経緯

当事者間に争いのない事実に、成立について争いのない甲一四五、一八四、一九九号証、乙一一、一二号証、一九号証の三、証人宮弘一の証言(一、二回)、同証言により真正に成立したものと認められる乙一三、一五、一六、一七号証、一九号証の一、二、二〇、二一号証の各一ないし四、二二、二三号証、証人布施津三の証言(一ないし五回)、同証言により真正に成立したものと認められる乙二九号証の一ないし四、三〇号証の一、二、証人阿部貞一の証言(一、二回)、同証言により真正に成立したものと認められる乙三〇号証の九、証人川島勲の証言、同証言により真正に成立したものと認められる乙三八号証、証人由水政次(一、二回)、同高橋芳三(一、二、三回)、同坪井敬、同田中敏夫、同斎藤耀(一、二回)、同八塩健三の各証言、被告会社代表者桜井督三(一ないし六回)の本人尋問の結果及び検証(一、二、三回)の各結果を総合すれば、次の事実が認められ、前掲各証拠のうちこれに反する部分は採用できず、他に右認定を左右するに足る証拠はない。

(一)  地震発生と被告会社の損失

昭和三九年六月一六日新潟地方を襲つた新潟地震によつて被告会社新潟工場は一造を中心としてかなりの被害を受けた。すなわち、二造は主要機器関係では二酸化塩素発生装置を除いては顕著な損傷はなく、床面、基礎、配管関係の修復を要する程度であつたが、道路、専用側線、工業用水管などの関連施設などに甚しい損害を受け、特に工業用水管の復旧は難工事を余儀なくされ、被災後一ケ月間の休転のやむなきに至つた。このほか、防潮堤決壊により原木土場は冠水し土盛り復旧に長期間を費した。これに対し一造はほとんど全ての製造設備、建物関連諸施設が傾斜、倒壊、分断せられ、更に長期にわたる冠水浸油の状態にあつたが、わずかに被災直前改造工事を終えて二階に据え付けてあつた六号抄紙機のみはその被害の程度も軽かつたため、とりあえずの応急措置として建物傾斜のまま現位置に据付け直しを行ない八月三〇日から運転を再開した。

これらのほか、原木の流失、製品、パルプ、薬品等の在庫品などの冠水、浸油による被害も多く、また、ワイヤー・フエルト、カンバス類の抄紙要具もその損傷甚だしいものがあつた。

そのため、被告会社のこうむつた損失額は、合計一〇億八、三〇〇万円の額に見積られた。

その内訳は左のとおりである。

(1) 休転損失金      二億五、三五七万三、〇〇〇円

(イ) 二造休転損失(六月一六日より七月一二日まで)

クラフトパルプ製造設備休転費  一億〇、六〇七万六、〇〇〇円

一号抄紙機休転損          一、〇二四万七、〇〇〇円

(ロ) 一造休転損失

六号抄紙機休転損(六月一六日より八月二九日まで)

一、九四一万一、〇〇〇円

二、五、七号抄紙機および関連施設(六月一六日より一〇月三一日まで)

一億一、七八三万九、〇〇〇円

(2) 被災在庫品損失      三、三七六万七、〇〇〇円

濡損製品                七四五万八、〇〇〇円

原木関係                四四七万九、〇〇〇円

貯蔵品、仕掛品関係              一、三〇四万円

毛布、ベアリング等被災損        八七九万一、〇〇〇円

(3) 単純応急復旧費(二造および一造六号機の復旧)

一億二、五九九万四、〇〇〇円

(4) 二、五、七号抄紙機および関連施設の廃棄損失(一〇月末現在帳簿価格)

六億六、六二九万二、〇〇〇円

(5) その他林業部関係他災害損        三五三万円

(二) 復旧計画の検討と一造の全面撤去

被告会社は操業再開を決定した二造の諸設備および一造の六号機を除く一造の二、五、七号機の復旧を検討した結果、これらの抄紙機の一括復旧にせよ、単純復旧にせよ、ぼう大な資金を必要とするにも拘らず、運転再開後は不採算となる見通しが強かつたばかりでなく、これらの抄紙機の設置されてあつた一造は地盤沈下が甚しかつた上、数度にわたる精密な地盤検査を行なつた結果、地下六ないし七メートルまではヘドロ状態を呈しており、建築に際し地耐力増強にぼう大な費用を要するため重装備の工場立地として適当でないとの結論に達した。そこで現位置に仮復旧した六号抄紙機については可及的速やかに二造へ移設することとし、一造地区は全面撤去の方針を決定した。

(三) 激甚法適用による休業に至るまでの経過

一造を全面廃棄することを決定した被告会社は七月五日常務会を開催し、右の一造廃棄に関連して職制改訂の審議を行ない、また同月一八日には社長室、勤労部、新潟工場関係者を集めて第一回合同秘密会議を開催して、被告会社としての今後の再建計画、労働組合との再建協力協定の締結問題、従業員の職場確保ならびに就労実施方法等について検討を加えると共に、新潟工場においてもこれらの対策とは別に同工場長の諮問機関として委員会を設け、一造従業員の職場確保、人員吸収策を検討したけれども、結局右委員会は具体案の作成をみるに至らず七月半ばにして解散するに至つた。

これより先の同月一一日激甚法の政令ならびに労働省令が公布されたため、被告会社ではこの適用を受けるかどうかについて検討した結果、同月二六日開催の常務会で右の適用を受けることを決定し、同月二七日の中生協および翌二八日の中労協において組合側に対し、八月一日から九月三〇日までの二カ月間激甚法の適用を受け、一造地区従業員五二七名について休業を命ずる旨提案し結局同月三〇日被告会社と組合との間において、被告会社の前記提案については八月一日からの休業人員を五二四名としたほかは提案どおりに協議が成立した。その際、なお、右休業期間中休業を解く場合には組合またはその支部にその日時、氏名、職場等を連絡した上で実施する旨の確認がなされた。

(四) 人員吸収策の検討

被告会社はその間一造従業員の人員吸収の具体策を検討した結果、

(イ) 従来臨時工職場であつたカミールマシンを本工により運転することとし、その要員として二〇名

(ロ) ソ連からのパルプ材の輸入販売を専門とする商材係を新設することとし、その要員として九名

(ハ) 本社、市川、長岡工場等他の事業場の要員の増加をはかつた結果、その配置のための転勤要員二八名

(ニ) 従来女子従業員の職場であつた仕上包装作業を男子従業員をもつてあてることとし、その要員として三二名

(ホ) 昭和四〇年一〇月までの新潟、市川、長岡各工場の定年退職予定者の事前補充として三三名、更に昭和四一年三月までの新潟工場の定年退職予定者の事前補充として四名

(ヘ) 新潟工場内の特定職場に定員外人員を暫定配置し、さらに管理部門の強化のための暫定要員として一八名

(ト) その他、組合専従者、病欠者等が現状どおりであると見込んで八名

都合計一五二名を吸収することとした。

被告会社ではその他勝田工場新設(いわゆる勝田計画)、下請業務の本工化等をも一応検討し人員吸収をするべくはかつたけれどもいずれも実現するに至らなかつた。すなわち、被告会社では茨城県勝田市に約六万坪の工場用地を所有しており、かねてより同用地に工場を建設して進出することを企図していたのであるが、新潟地震による一造廃棄に伴う人員吸収策の一環として改めて右の勝田工場新設を検討した結果、勝田計画が実現した場合、およそ一五〇名乃至一八〇名の従業員が必要となり、一造従業員から右の所要人員を吸収することが一応可能となる計算であつた。しかしながら、板紙の需給関係等当時の紙パ業界の状況からして右の勝田計画に対しては過剰設備投資になるものとして通産省はその承認を与えることについて難色を示し、また、右の勝田計画を実現するためにはおよそ三〇億円に近いぼう大な資金を必要としていたところ、政府金融機関からは、右計画は震災復興計画の枠外であるとして融資を得る見込みが立たなかつたことから、すでに七月当時、右の勝田計画を再建計画として実行することは実際上不可能であり、従つてこれを一造の従業員の人員吸収策の一環と考慮する余地はほとんどなかつた。

また、新潟地震当時一造関係の下請業者は資材、製品等の運搬を目的とする訴外北越運輸と一契協立社の二社であつたが、一造の廃棄に伴い右北越運輸は解散し、一契協立社のみが残つた。そこで、被告会社では一造関係の下請業務を本工にやらせることによつて人員の吸収をはかることを検討したけれども、右の運搬業務はかなりの重労働の作業内容であり、かつ、工場内側線(引き込み線)の動力車の運転には資格を有する者でなければならない等の理由もあつて、これを一造の従業員をもつて肩代りすることは実際上困難であつたため、下請業務に本工をあてることによつて人員吸収をはかることについては断念した。

(五) 休業から本件解雇に至るまでの経緯

かくして被告会社は一造従業員のうち原告らを含む合計五二四名を休業者として指名し、指名を受けたこれら従業員は八月一日から激甚法の適用を受けて休業に入つた。その後被告会社は六号機復旧要員その他前記の人員吸収策を講じた各職場の要員として、六号抄紙機復旧要員については二、五、七号抄紙機に従事していた従業員の中から、電気、工作、動力等特殊部門要員については、その部門に従事していた従業員の中から、新設された商材係の要員については、原木職場に従事していた従業員の中から、カミールマシン、仕上包装の要員については、調木、砕木、紙料、全マシン、仕上の各職場に従事していた従業員の中から、そして、市川工場、長岡工場への転勤要員については、本人の家庭状況を考慮のうえ選定し、その承諾を得たものの中から、いずれも被告会社において必要とする者を選び逐次休業を解除して就労、転勤の努力を続け、九月三〇日には休業中の者は男子二九九名、女子三五名合計三三四名となる運びとなつた。一方、組合では七月二八日、三〇日の中労協において休業問題をめぐつて示された被告会社の組合に対する態度に不信感を抱き、ことに被告会社は激甚法の適用解除期限である一〇月一日以降の休業者の取扱いについて組合の要求する完全雇傭を確約することを避けていたため、この際地震に便乗していわゆる合理化計画を強行し組合員に対し人員整理の挙に出るのではないかとの強い不安と危惧の念を抱いていた関係上、右のごとく被告会社が前後六回に分けて逐次休業を解除して従業員を就労させた措置を「こま切れ就労」、六号機の復旧要員を従来六号機に従事していた従業員に限定することなく、他の抄紙機に従事していた従業員中から選択して配置した措置を「さしくり人事」と称して反対し、就中、右の「さしくり人事」の際の人選の仕方について被告会社を激しく非難するとともに、全員就労を強く要求して被告会社に迫り、両者の間に中労協、事業場労協がひんぱんに開かれてこれらの問題について協議がなされたが、結局、意見の一致をみるに至らなかつた。

これと並行して、被告会社は種々検討した結果、応急復旧費を含め総設備資金として三六億円を要する再建計画を立案したが、右計画に基づく設備完成後の新潟工場における正常人員は男子七八一名、女子二〇三名合計九八四名であり、地震直後の新潟工場在籍人員一、二八四名(一造六五五名、二造六二九名)から九月三〇日までの死亡者男子二名、定年退職者男子六名、女子二名を除いた人員数と比較すると、女子は三七名不足となるが男子は三二七名が余剰となる結果となつた。しかしながら、前認定のとおり、既に臨時工職場への本工転換あるいは各事業場への増員、転勤等によつて一五二名の吸収をはかつていたため、男子の実質余剰人員一七五名については解雇するもやむなしとの結論に達した。

そこで被告会社では激甚法適用解除の期限である九月三〇日現在の休業者その他公傷病、私傷病、組合専従等で休業にならなかつた組合員三三一名中一〇月一日に出勤、転勤する二八名および女子従業員三五名合計六三名を除く二六八名の男子従業員に一定の基準をあてはめて帰休者九五名を選定し、残余の者を退職者として人員整理することとし(右基準適用の対象人員決定の経緯については後述のとおり。)、本社勤労部を中心として八月下旬から帰休者選定基準の立案作業を進め、九月初め被告主張の帰休者選定基準のうち末尾但書と第二、三項の評価点の決定を除いて成案を作成し、同月四、五日の両日開催された役員会において組合に提示すべき右基準の最終審議を経て決定をみた。

そしてその間被告会社本社勤労部長布施津三は同月二、三の両日人員整理によつて解雇される従業員の再就職の斡旋のため、王子製紙等の同業他社を訪れて再就職の引受け方を依頼する一方、同月六日には、翌七日組合との団交で提案すべき被告会社の人員整理問題について事前説明をするため、阿部貞一勤労部副部長と同道のうえ市川工場に赴いて組合の委員長らにその内容を口頭で説明した。

翌七日、八日の両日開かれた被告会社と組合との団体交渉において、被告会社は一〇月一日以降における休業者の取扱いに関し、一二九名(男子九五名、女子三四名)については帰休(一〇月一日から各人の失業保険受給期間終了まで)及び休業(その後昭和四〇年九月三〇日まで)とし、右の帰休に該当しなかつた者については昭和三九年九月三〇日付で退職とする旨を骨子とした人員整理案ならびに右提案に至つた被告会社の現況、再建計画の方針等について説明をなしたうえ、協議に入つたが、組合側は解雇の必要性、被告会社の人員吸収の努力とその結果、基準の適用を一造の従業員に限定した理由、帰休者と退職者の選定方法等について被告会社の回答は納得がゆかないとして右人員整理案の撤回を要求し、完全雇傭が保障されるまではあらゆる努力を続けてゆくことを表明し交渉は物わかれに終つたが、その後も事務連絡を継続することを約した。

しかしながらその後同月九日から一〇日にかけて前後三回にわたり被告会社勤労課長から組合本部書記長に対し団交再開を申し入れたけれども組合側は内部討議の都合上団交はもてない旨回答したばかりでなく、休日、時間外労働の拒否の実施を通告し、同月一二日被告会社の全事業場とも休日、時間外労働拒否を実施するに至つた。

更に新潟工場では人員整理に反対して同月一四日午前七時から第一波四八時間ストに突入し、また同月一八日には被告会社全工場において四八時間ストに突入し、その間同月一五日には新潟工場の事業場団交が、同月一七、一八の両日には中央団交がそれぞれ開かれ、その席上、被告会社側は人員整理の必要性、帰休者選定基準の内容等を再度説明し、これに対し組合側は協議成立までは解雇を延期されたい旨要請し、議論は併行線をたどつて協議は成立をみるに至らなかつた。

そして同月二二日開かれた団交において被告会社は組合の要請に応じて右帰休者選定基準を文書で提示した上、組合と協議したけれども、結局、被告会社は一七四名(前記一七五名のうち非組合員一名を除く)の人員整理を前提として、その退職条件について協議しようとしたのに対し、組合側は人員整理の必要性を争つてその撤回を求めると共に、九月二八日から予定されている組合の定期大会で本件人員整理問題を組合員にはかつて討議し組合としての意思決定をしたいから、それまでの間は少なくとも九月三〇日の解雇通告を延期されたい旨主張して退職条件の協議に入ろうとはしなかつたため、翌二三日にも中央団交を継続したが、ここにおいても被告会社、組合の双方とも従来の主張、要求を繰り返して激しく議論するのみで協議は全く進展しなかつた。そして遂に組合側から、「交渉は決裂したことを表明しておく。」旨の意思表示がなされ、これに対し会社側から、「交渉が決裂した以上、やむを得ず、九月二四日に各人あてに解雇等の通告を行なう。」旨を表明して、ここに団交は最終的に決裂するに至つた。

その間被告会社では本社勤労部を中心として次のような帰休者の選定作業を行なつた。すなわち、九月三〇日現在における休業者その他公傷病、私傷病、組合専従等で休業にならなかつた者は三三四名(男子二九九名、女子三五名)であつたが、当時女子従業員が正常人員に比較して三七名不足していた関係上、女子従業員は原則として全員帰休させることとして、右の三三四名から三五名の女子従業員を除外させた。(なお、原告らは、被告は当初女子従業員三五名についても帰休者選定基準を適用した旨主張しながら、本件口頭弁論終結直前に至り、右主張を変更し、右の基準の適用については女子従業員を除外した旨主張したとして異議を述べているけれども、昭和四〇年一〇月一日の第三回準備手続期日において陳述された被告準備書面(第二回)によれば、「従業員の吸収策を講じてもなお余剰となつたのは一七五名の男子従業員であつた。」旨の記載があることからすれば、被告の主張は当初から、右基準の適用については女子従業員をその対象から除外していた趣旨と解せられるから、被告の主張は前後矛盾なく、主張の変更にはあたらない。)次いで残余の男子従業員二九九名から一〇月一日に休業を解除して出勤及び転勤予定の二八名を選定してこれを除外し、結局、残余の二七一名に対して被告主張のごとき帰休者選定基準を当てはめて帰休者を選別することとし、被告主張のごとく右基準の第二項の勤務成績、第三項の職場適性、健康度には二〇点を満点とする評価点数をそれぞれ設定し、第三項の年令度については五〇才以上の者については一〇点、五〇才未満の者については七点を一律に与えて右基準を適用した。そして、右基準適用の結果解雇された組合員は、基準第一項によるものは、別紙「解雇基準項目別被解雇者氏名目録」中「(一)第一項により解雇された者」欄記載の原告横山豊ら原告八名を含む一四名であり、基準第二項によるものは、同別紙中「(二)第二項により解雇された者」欄記載の原告三膳博ら原告七名を含む一一二名であり、また、基準第三項によるものは、同別紙中「(三)第三項により解雇された者」欄記載の原告若林正平ら原告八名を含む四九名であり、結局、都合計一七五名(うち非組合員一名)が右基準の解雇該当者として解雇されたほか、前記の女子従業員三五名中再建計画の完了する昭和四〇年九月三〇日までに定年に達する予定にあつた一名については右基準によることなく解雇することとなつた。

そして団交が決裂した直後の九月二四日被告会社は原告らを含む右の解雇された者一七五名に対し内容証明郵便により九月三〇日付をもつて解雇する旨の通告書を発して、これらの者に対し解雇の意思表示をなした。

なお、被告会社と組合とはその後も団交を重ねた結果、結局、一二月一五日一造在籍従業員である組合員のうち原告らを含む一七三名(男子一七二名、女子一名)について、右のごとく、九月三〇日付をもつて退職とすることに関し協定が成立するに至つた。

二、ところで、企業の整備、再建計画の樹立およびその内容決定等は元来経営者の専権に属するものというべきであるから、一般に会社の経営が困難に陥つたときに、当該企業の整備再建計画にもとづいて余剰とされた人員を解雇することは、それがたとえ従業員の責に帰すべからざる事由による場合であつても、原則として許容されるところであり、たゞその解雇手続が労働協約に違反する場合、解雇が不当労働行為となる場合、あるいは解雇権の行使が権利濫用にあたる場合に限つて、右解雇が無効となるに過ぎない。しかして、前記認定事実によれば、本件解雇は、新潟地震という天災により被害を受けた被告会社が、その影響で経営困難に陥り(被災による被害の程度の詳細は後述のとおり)その窮境を打開するために再建計画を樹立し、右計画に基づき余剰とされた人員を被解雇者として選定したものであることは明らかであるから、以下、協約義務違反、不当労働行為、解雇権の濫用の点につき順次判断する。

(一) まず原告らは右解雇の意思表示が労働協約、労使慣行上認められた使用者の協議義務に違反してなされたものであるから無効であると主張するので、この点について判断する。

(1) 八月一日から実施された休業について

前記認定事実に前掲甲一八四号証、乙二九号証の三、証人豊島正五の証言、同証言により真正に成立したものと認められる甲四一号証、証人布施津三、同田中敏夫の前掲証言、および原告岩橋孝平の本人尋問(一、二回)の結果を総合すると、次のとおり認められる。すなわち一造を廃棄することを決定した被告会社は、その後、七月一一日公布された激甚法の適用を受けることとし、同月二七日開催の中生協において組合側に対し、一造地区従業員に対するとりあえずの処置として激甚法の適用を受けることおよびその後の処置については復旧計画と関連して検討することを提案し、翌二八日開催の中労協において更に具体的に、八月一日から六号機の復旧要員と他の事業場へ転勤させるものを除く一造地区従業員五二七名については身分はそのままとして休業を命じ失業保険の給付を受けるものとする旨提案したところ、組合側は完全雇傭と労働条件の維持、就中、解雇しない旨の確約を強く要求し、これに対し被告会社々長は、「不本意ながら組合の基本的態度にそつていくことは到底困難である。すなわち完全雇傭(出勤し生産作業を行ないそれに対して賃金の全額を支払う状態)もできかねるし、労働条件のある程度の低下もよんどころないと考える。」と回答し、両者の間で基本線について一致をみるに至らなかつた。結局、組合側としては被告会社の右提案は突然示されたものであつて、組合内部において充分検討を経たいから同月三〇日に中労協で協議を継続して欲しい旨申入れ、被告会社もこれを了承して休業問題についての協議は続行されることとなつた。ところが被告会社は同月三〇日の中労協をまたずに六号機の復旧要員等を除外した五二七名に対しその前日の二九日休業通知書を発送したため、一造地区の組合員の間にかなりの不安と動揺を与える結果となつた。そこで、翌三〇日開かれた中労協において組合側は被告会社の右措置について強く難詰したところ、被告会社本社勤労部長はこれについて陳謝の意を表明したけれども、結局、同日被告会社と組合との間において被告会社の前記提案については八月一日からの休業人員を五二四名としたほかは提案どおりに協議が成立し、その際、なお、右休業期間中休業を解く場合には組合又はその支部にその日時、氏名、職場等を連絡した上で実施する旨の確認がなされた。以上の事実が認められる。

ところで、成立に争いない甲第一〇号証(労働協約書)によれば、「労働条件に関する一般的基準事項」が中労協の協議事項であることは労働協約第一八条四項に明記されているところであり、前記激甚法適用による八月一日からの休業問題は右の協議事項に該当すること明らかであるばかりでなく、被告会社は七月二八日の中労協において協議が成立するに至らなかつた右休業問題について再度同月三〇日の中労協において協議検討することを約しながら、これを無視し同月二九日に六号機の復旧要員等を除外した五二七名に対して休業通知書を発送したことは、たとえ、被告会社の主張するように、被告会社が当時おかれていたひつぱくした時間的状況その他の客観的諸事情を充分考慮に入れたとしても、右の時点における休業問題の協議に関する限り、被告会社に一応前記協約上の協議義務を尽さなかつたとのそしりは免れない。それ故にこそ三〇日の中労協において組合側の非難に対し被告会社本社の布施勤労部長は被告会社のとつた前記措置について陳謝の意を表わしたのである。しかしながら、被告会社が休業通知書を発送した七月二九日の段階においては、被告会社はいまだ人員整理の対象者を休業通知書を発した五二七名の中から選定すべきことを具体的かつ確定的に決定していたとの証拠はなく、従つてこの段階においては被告会社の前記措置を指していまだ本件解雇自体についての協約違反ないしは労使慣行上の協議義務違反ということはできないばかりでなく、結局において組合は七月三〇日「休業を解く場合には組合と協議されたい」旨の要望を添えて激甚法の適用を認めることを確認しているのであるからこの点についての原告らの主張は理由がない。

(2) 休業解除の措置について

前記認定事実に前掲乙二九号証の三、証人阿部貞一、同布施津三の前掲各証言ならびに原告木山修吾の本人尋問の結果を総合すると次の事実が認められ、前掲証拠のうちこれに反する部分は採用しない。すなわち、被告会社は一造従業員のうち原告らを含む合計五二四名に八月一日からの休業を命じたがその後被告会社新潟工場は六号機の復旧要員その他の職場の要員等についてその人員確保の必要性が生じたため、本社勤労部等と緊密な連絡をとりながら当該休業解除者の復帰職場への適合性、勤務成績等を考慮したうえ、逐次休業を解除し就労させることとした。そして、当初は六号機復旧要員として八月一六日と同月一八日の二回に分けて休業解除する手筈のもとに本社勤労部阿部副部長が同月一三、一四日ころ新潟を訪れ、当時新潟滞在中の組合本部執行委員らにその旨説明した。ところで、七月三〇日の中労協においては組合から「休業を解く場合には、組合と協議されたい。」との要望がなされたのに対し、被告会社は右要望を容れず「休業解除の際には組合または支部にその日時、氏名、職場等を話した上実施する。」ということが確認されただけであつたにも拘らず、組合側は右の趣旨を支部組合員らに充分徹底させていなかつた。

そこで、被告会社側が休業中の組合員のうち一部の者だけについて休業を解除しようとしていることを察知した一造の組合員らは自分が休業解除と指名されるかどうか、ひいては右の休業解除が解雇につながるものであるかどうかについて不安を覚えてにわかに動揺したため、組合本部執行委員らは阿部勤労部副部長に対しとりあえず八月一六日および一八日の休業解除の指名通知は取りやめ、一八日に予定されている中労協開催ののちに休業解除をして欲しい旨の要請をなし、被告会社においても予定を延期して、一八日に組合に通告した上、一九日に六号機復旧要員等として合計二四名の者の休業を解除した。

そしてその後も八月二〇日に一七名(組合通告日八月一八日)、八月二一日に六二名(同上八月二〇日)、八月二五日に一名(同上八月二〇日)、八月三〇日に二七名(同上八月二四日)、九月一日に一一名(同上八月二四日)を逐次六号機復旧要員、転勤要員等として休業を解除し、結局、九月三〇日現在の休業者その他公傷病、私傷病、組合専従等で休業にならなかつた者は全部で三三四名(うち非組合員三名)となつた。以上の事実が認められる。

以上の認定事実からすれば、被告会社と組合との間に休業解除について協議をなすべき旨の協約、その他労使間の慣行が認められない本件においては、原告ら主張のように、被告会社が組合と協議を経ることなく休業を解除して就労させた措置をもつて直ちに協議義務違反とすることはできない。しかしながら、後述のように、被告会社においてはすでに七月末ころには人員整理の必要はほゞ不可避であるとされており、八月下旬ことに同月二四、二五日ころにはその確定的な員数はともかくとして被解雇者のでることは確実なものとなり、しかも、被告会社としては生産体制を維持する必要上、被解雇者は休業中のものの中から選出する方針であつたのであるから、右に認定したように八月三〇日に二七名、九月一日に一一名について休業解除した際には、右の休業解除は実質的には解雇問題と直結するものであり、休業解除と解雇とは裏腹の関係にあつたものと認められる。そうであるとすれば、休業解除はそれ自体被告会社の管理運営権に属することであるとしても、本件のようにそれが実質上解雇と密接な関連を有する場合には、たとえ、協議義務違反そのものといえないまでも、右の如き被告会社の態度は後述するとおり解雇権行使の態様を検討するにあたつて判断の一資料たり得るものということができる。

(3) 本件解雇をめぐる協議について

前記認定事実に成立に争いのない甲一九九号証、前掲乙三〇号証の一、二、および同号証の九、証人布施津三、同田中敏夫の前掲各証言を併せ考えれば次の事実が認められ、右認定に反する証人布施津三、同田中敏夫の各証言部分はこれを信用しない。すなわち、

被告会社が立案した再建計画によれば、右計画に基づく設備完成後の新潟工場における正常人員は男子七八一名、女子二〇三名合計九八四名であり、各職場への増員、事業場への増員転勤等をはかつた結果、結局男子一七五名が余剰人員となつた。そこで被告会社では、九月七日の中央団交において組合に対し「九月三〇日現在激甚法適用者、公傷病欠勤者、私傷病全欠・休職者および組合業務専従者(本部非専従役員を含む。以下、これらの者を九月三〇日現在の休業者と略称する。)の中から新マシンおよびKP増産要員ならびに欠員補充要員等として被告会社が選定した男子九五名、女子三四名合計一二九名の組合員についてはこれを帰休者とし、これに該当しなかつた男子一七三名、女子一名合計一七四名についてはこれを退職者とする」ことを骨子とする「新潟工場休業者の昭和三九年一〇月一日以降の取扱に関する件」と題する書面を提示すると共に、帰休者と退職者(被解雇者)の選定方法としては、人物、適性、勤務成績等の観点から総合的に判断して被告会社において必要とする者を選定する旨を口頭で説明した。ところで、右提案当時予定されていた九月三〇日現在の休業者中組合員数は三三一名であり、右の帰休者数と退職者(被解雇者)数の合計は三〇三名であるから、残余の二八名の取扱いかんが問題となるが、右提案当時もその後の団交、事業場労協においても右の二八名の取扱については全く触れられることがなかつた(二八名の取扱については後述のとおり)。以上の事実を認めることができる。

ところで、原告らは被告会社の右提案は九月三〇日現在の休業者数の点において虚偽であるから、提案内容が虚偽である以上組合との協議義務を尽したことにはならないと主張するけれども、被告会社は本件解雇にあたり、解雇(人員整理)の必要性、帰休者選定基準の内容および解雇の時期等「人員整理に関する基本事項」を組合に提示して協議を求めており、就中、右の提案中最も重要な事項である被解雇者数については、九月七日の提案時から九月二三日の団交決裂に至るまで終始変ることなく組合に対し提示しているのであるから、解雇に関して協議義務を尽したかいなかの点から判断する限り、被告会社の右提案における九月三〇日現在の休業者数のくいちがいをとらえて被告会社に協約義務違反ないし労使慣行無視があつたとすることはできない。

また、九月七日当時被告会社が口頭をもつて組合に提示した帰休者および退職者の選定基準は、前認定のとおり、「人物、適性、勤務成績等を総合的に判断して被告会社において必要とする者」という抽象的な基準であつたが、被告会社においてこうした抽象的な選定基準を組合に示したのは(既に被告会社の常務会において九月五日には本件「帰休者選定基準」の但書を除く一ないし三項の基準が成案としてできていたのであるから、単に口頭による前述のような抽象的な文言ではなく、率直に右の基準の成案自体を組合に提示して協議の対象とするのが妥当であつたものと思われるが)交渉を重ねるうちに組合の意見を汲み常務会で一応決定した前記の基準を手直しする意図があつたものとも窺われ、現に、九月二二日組合に提示した基準にはその末尾に但書を付け加え被告会社の最終案として本件帰休者選定基準を提示したことが認められるから、被告会社は本件解雇にあたつて明確な解雇基準を組合に示さなかつたとする原告の主張は理由がない。

さらに、九月二二日から二三日にかけて開かれた団交において組合側は人員整理の必要性を争つてその撤回を求めると共に、九月二八日から予定されていた組合の定期大会で本件人員整理問題を組合員にはかつて討議し組合としての意思決定をしたいからその間は九月三〇日付の解雇通告を延期されたい旨主張したけれども被告会社において右主張を容れずに九月三〇日付の解雇通告を絶対的条件としていたため遂に組合側から交渉決裂の意思表示がなされて団交は最終的に決裂したことは前認定のとおりである。

ところで、本件解雇の提案がなされるに至つた経緯および人員整理の規模、ならびに組合の組織、機構等を勘案し、組合の民主的運営を考慮するならば、組合から文書による帰休者選定基準の提示が求められていたにも拘らず、被告会社が組合に対してこれを提示したのが九月二二日であり、右の文書による解雇の提案がなされてから解雇通告日まで八日間の日数があつたとはいうもののその間にたまたま組合の定期大会が開かれるからその機会に本件解雇問題を組合内部で討議したいとする組合の主張も一応合理的理由のあることであり、あながちこれを単なる解雇通告を回避するための時間かせぎとばかりいうことはできないけれども、他方、激甚法適用解除の期限が一応九月三〇日であり、組合大会の終了予定日が一〇月一日という時間的関係から考えても、九月三〇日の解雇通告に固執した被告会社の立場も理解し得ないわけではない。

しかしながら、結局において、九月三〇日までに一七五名の人員整理を基本的前提とする被告会社と解雇そのものの必要性を争う組合側との交渉は併行線をたどつたまま九月二三日に至り組合側から交渉決裂の意思表示がなされて団交は最終的に決裂したのであり、被告会社の当時おかれていた経営状態等を考慮すれば一応やむを得なかつたものと認められ、被告会社の団交に臨んだ態度をもつて、協議義務を尽さなかつたものということはできない。

以上認定したとおり、いかなる点からしても本件解雇につき被告会社において労働協約もしくは労使慣行を無視し、協議義務を尽さなかつたから本件解雇は無効であるとする原告らの主張は採ることはできない。

(二) 次に原告らは本件解雇が不当労働行為に該当するから無効であると主張するので、この点について判断する。

(1) 成立に争いのない乙一号証の一乃至一五、二号証の一乃至一〇、三号証の一乃至五、四号証の一乃至一一、八号証の一乃至二六、弁論の全趣旨により真正に成立したものと認められる甲三八、四四号証、証人布施津三、同坪井敬の前掲各証言、原告岩橋孝平、被告会社代表者桜井督三の前掲各本人尋問の結果を総合すると、次の事実が認められる。すなわち、

被告会社は昭和三三年に解雇を含む企業の体質改善を行なつた後においてもなおその経営基盤は甚だ弱く、市況はもとより雪害等によつても収益が大きく左右される企業体質にあつたことから、被告会社の経営刷新をはかるため昭和三六年下期の中生協において所謂二目標九方針の経営指針を打ち出し、その具体案として昭和三八年七月開かれた下期中生協において第一次体質改善計画が提示された。この計画はその内容として、設備の改造、不採算部門の停止、休止、操業計画の変更、操業人員の組替え、労働生産性の向上等を主眼とするものであり、その具体的な設備計画として、新潟工場一造の改造と市川工場五号機の新設を二本の柱とし、その附帯設備を含む設備の合理化を図ることにあつた。これを新潟工場に関していえば一造の六号機を改造して新聞紙から上・中質紙の製造に転換し、七号機は全面的に故紙を使用するための処理設備の増強と老朽な部分に手を加え、一造、二造間の流送設備と集中叩解を図る原料調整部門を作ることおよびSP設備、三号機を停止するということにあつた。

ところが被告会社の右計画実施については、計画発表の当初から既に組合側から、スクラツプアンドビルド計画であり、労働条件の低下をもたらすものであるとして反対の意思が表明され、殊に右計画実施の対象職場の一つとされた一造地区においては、SP設備と三号機の停止の計画に対しては稼働職場の確保を、臨時工職場の本工職場への転換に伴う臨時工の解雇に対しては臨時工の解雇反対を唱え、また強制配転の拒否その他労働条件の改善を要求し、その闘争方針として従来の執行部の指導を中心とする闘争方法から職場の労働者が中心となつて闘う大衆路線方式を打ち出して各職場において職場集会、職場討議、課長交渉等の機会を通じて右計画の実施に反対の意思を表明してきた。

そして被告会社と組合は右の第一次体質改善計画の実施をめぐつて頻繁に中労協、団交を開いて協議を重ねた結果、右計画に基づく市川工場への新潟工場からの配転はすべて配転希望者に限るとするなど組合にとつて被告会社に対し一定の譲歩を勝ち取ることができ、最終的には昭和三九年四月一日組合との間に体質改善計画に伴う定員および転勤、転務等について協定が成立し、また同年七月一日には操業日数の増加(休転日数の減少)を基本とする人員関係、勤務条件等についての協定の調印をみるに至つた。以上の事実が認められる。

(2) 原告らは、本件解雇は体質改善合理化計画遂行の一環として行なわれたものであり、合理化計画に抵抗する一造地区の職場組織を弱体化させ、北越製紙労働組合、ひいてはその加盟団体である紙パ労連の組織と活動とを弱体化させる意図のもとに地震に便乗してなされたものであるから不当労働行為であつて無効であると主張するが、右認定の事実に徴すれば、被告会社の提示した第一次体質改善計画をめぐつて労使が相対立していたことが認められるけれども、これをもつて原告らに対する本件解雇はすべて不当労働行為として無効であるというのは早計にすぎよう。

なるほど、証人豊島正五(一、二回)、同時田是人(一、二回)の各証言、原告岩橋孝平(一、二、三回)、同木山修吾(一、二回)、同国分重剛、同細野正幸の各本人尋問の結果ならびに弁論の全趣旨を総合すれば、原告らの多くは第一次体質改善計画の際はその実施については反対しビラ撤き、職場闘争等を積極的に展開し或いは配転拒否をしたものであり、殊に、原告小林昌夫は組合の専従書記、青年部役員を経て昭和三七年から新潟支部の執行委員として、原告岩橋は評議員、新潟支部専従書記等を経て昭和三八年から再び評議員として、原告横山豊は組合青年婦人協議会書記長をしたのち、昭和三六、三八年度には評議員として、原告小林進は昭和三四年から評議員となるかたわら、「うたごえ運動」を始め、新潟支部内においては「北越うたう会」を創立し、また新潟県うたごえ実行委員会のメンバーとして、原告国分重剛は新潟支部青年婦人部長、評議員となるかたわら、原告小林進、同鈴木治雄らと共に「うたごえ運動」を始め、前記「北越うたう会」および新潟県うたごえ実行委員会のメンバーとして、原告細野正幸は、職場委員、新潟支部常任委員を経て昭和三八年から評議員として、原告鈴木治雄は勤務のかたわら原告小林進、同国分重剛らと共に「うたごえ運動」を始め、前記「北越うたう会」のメンバーとして、原告三膳博は組合本部執行委員、新潟支部副支部長として、原告木山修吾は新潟支部常任委員として、原告杉原彰は職場組織内の学習会のメンバーとして、原告古川吉治はSP職場の部門委員長として、それぞれの職場において職場組織の強化、活動家の指導育成に努力し、もしくは地域社会における労働運動に参加したことが認められるけれども、被告会社が原告らの前記組合活動を原告らを企業外に追放するまでに嫌忌しこれを理由として本件解雇がなされたものと認めるに足る証拠はなく、また、いわんや一造地区の職場組織を弱体化させ、北越製紙労働組合ひいては紙パ労連の組織と活動とを弱体化させる意図のもとに地震災害に藉口してなされたものと断ずることができない。

すなわち、証人土橋昭富、同時田是人(一、二回)の前掲各証言によれば、新潟工場一造地区、二造地区の組合労働者は労働運動において本質的にはさほどの差異はなく、たまたま前記第一次体質改善計画は新潟工場においては一造を中心としてなされた関係上、設備の停廃止、それに伴う転勤、転務の労働条件の変更をめぐつて一造の労働者から右計画に対する具体的な反対行動がとられたにすぎないことが認められるので、右認定の事情からすれば、ことさら一造の労働者である原告らを二造ないし他の事業場の労働者と区別し組合活動を理由として解雇したと断定することはできない。

(3) また、原告らは本件解雇は被告会社が人件費の負担に耐えかねてその存立維持のためやむなくなされたものであるとしながら、その後多くの従業員を新規採用しているのは結局、地震を悪用し合理化に抵抗して闘う労働者を排除し、その不当労働行為の意図を隠蔽するために中高年令労働者をも併せて解雇したものであるから、本件解雇は全体として不当労働行為として無効であると主張する。

被告会社が本件解雇後昭和四一年四月までに合計一〇一名の従業員を新規採用したことは当事者間に争がなくその内訳は証人布施津三の前記証言(三回)によれば、本件解雇を行なつて六カ月経過後の昭和四〇年四月一日付をもつて大学卒六名、中学卒男子五名、同女子七名計一二名、その他欠員補充として三名合計二一名を新規採用し、また、昭和四一年四月さらに大学卒三名、高校卒一一名(機械四名、化学三名、林業四名)計一四名のほか各工場の欠員補充として六六名を新規採用し、結局本件解雇後昭和四一年四月までの間に合計一〇一名の従業員が新たに採用されたものであることが認められる。

しかしながら、被告会社の右新規採用は、前記証人布施津三の証言によれば、職制その他の専門職等の幹部要員を間断なく補充し断層を生ぜしめないため、もしくは生じた欠員をそのつど補充するため被告会社の人事計画の一環としてなされたものであることが認められ、これによれば、右新規採用は合理的理由に基づくものであつて、被告会社の右措置をもつて直ちに、本件解雇は原告ら主張のごとく不当労働行為の意図をもつてなされたものであると認めることはできない。

さらに、原告らは本件解雇は労働者の離間をはかり、その間に対立と混乱をもたらすと共に労働者の団結を切り崩し組織破壊を目的としてなされたものであるから不当労働行為として無効であると主張するけれども、全証拠によるも被告会社が原告ら主張のごとき意図をもつて本件解雇をなしたものとは認められないから、原告らの右主張もまた理由がない。

以上認定したとおり、いかなる点からしても被告会社のなした本件解雇は不当労働行為として無効であるとする原告らの主張は採用できない。

三、ところで、会社が経営困難に陥つたときは当該企業の整備、再建計画にもとづいて余剰とされた人員を解雇できることは前述のとおりであるが、一方、労働者が容易に再就職できない今日(仮に再就職できても、従来と同程度の待遇を受けることはほとんど期待できない。)、解雇は実質的に失業を意味し、労働者の生存権をも奪う結果になりかねないのであるから、会社は解雇権を行使するにあたつては、企業維持の合理的目的の範囲にとどめ、被解雇者の人選についても不合理な方法をとらない信義則上の義務があるというべきである。換言すれば専ら従業員に損害を与える目的で人員整理に名を藉りて解雇する場合とか人員整理以外の方法によつて経営困難を容易に打開する方策があつて人員整理の必要が存在しないにも拘らずこれありとして敢えて解雇の挙に出るとか、人員整理の仕方が使用者の恣意的主観的方法によつてなされる場合など、使用者としての信義に反して解雇がなされる場合にはその解雇は解雇権の濫用として無効というほかはない。

そこで、つぎに本件解雇が右のような場合に該当するかどうかについて検討を進める。

(一)  まず原告らは被告会社の経営は従来健全であり、かつ他社との比較においても優良を誇り得る内容であつたところ、本件地震による被災は全工場の設備からすればごく一部であり、その被災額も僅少であつてその生産活動に与えた影響は軽微であつたにも拘らず、地震損失を誇大にみせかけその存立が危殆に瀕していると称しその必要性なきにも拘らずなされた本件解雇は解雇権の濫用であると主張する。

前掲乙一号証の一ないし一五、二号証の一ないし一〇、三号証の一ないし五、四号証の一ないし一一、八号証の一ないし二六、三八号証、証人宮弘一の前掲証言、同証言により成立の認められる乙三六号証の一ないし二六、証人川島勲の前掲証言を綜合すれば、次の事実が認められ、前掲証拠のうちこれに反する部分は採用しない。すなわち、被告会社では国際収支の急激な悪化、ならびにこれに伴う国内市場の不況等により、かねてから経営状態の行き詰り打開に苦慮し生産の合理化、資産の売却等によつて経営内容の改善に努めて来たが容易に赤字決算の克服ができず、昭和三三年上期から翌三四年下期までの四期間は連続無配を続けその経営は深刻な状況にあつた。しかしその後昭和三四年下期から市況も好転したためその経営に立直りをみせ、爾後徐々に利益を計上し得るようになつたが、被告会社の企業体質そのものが脆弱であつたため市況の変動に左右され、また雪害によつて大きく影響される状態であつた。そのため被告会社ではかかる企業体質の弱さ、経営基盤の脆さを改善するため長期的展望に立つた企業体質の改善計画が必要とされるに至り、昭和三八年前記のような第一次体質改善計画が立案され、これが実施されるに至つた。

こうして第一次体質改善計画が実行に移された結果、被告会社の生産性はいまだに低かつたけれども、収支の状況は良好となり殊に企業の収益性は同業他社に比較した場合は遜色がないまでに企業体質が改善された。なお、当時の被告会社の資本金は二一億円であつた。

しかしながら昭和三九年六月一六日発生の新潟地震によつて新潟工場の一造を中心としてかなりの打撃を受け、被告会社の同年一〇月期に計上された被災損失は次のとおりであつた。

固定資産除却損 四億四、一二九万二、〇〇〇円

棚却資産損失    三、三七六万七、〇〇〇円

休転損失    一億八、九一六万三、〇〇〇円

復旧費     一億二、五九九万四、〇〇〇円

災害損失特別勘定繰入額  二億二、五〇〇万円

その他              三五三万円

右の被災損失は全額繰越利益剰余金減少高として処理されたが、その結果、当期の未処理欠損金は七億九、九〇〇万円となり、これについてはまず利益剰余金である任意積立金二億九、四〇〇万円と利益準備金一億七、二〇〇万円を取崩し、さらに資本剰余金である再評価積立金三億三、三〇〇万円を取崩すことによつて次期繰越欠損金を零とした。そのため同期における被告会社の自己資本構成比率は前期の二九・六%に対して一九・一%と著しく低下し、同業他社と比較した場合においてもその水準をかなり下まわる結果となり、また収益性、生産性などにおいても他社と比較して著しく低下するのやむなきに至つた。以上の事実が認められる。これによれば、被告会社の本件地震による被災損失は僅少であり、その生産活動に与えた影響は軽微であるということはできず、本件解雇はその必要性なきにも拘らずなされたものであるとする原告らの主張は理由がない。

もつとも、成立に争いない甲一八五号証には、企業の経営内容に関する総合的な判定指標としての総資本収益率を基準として判断すれば、被災直前の被告会社は企業規模は大ならずとはいえその経営内容の質的な面においては優良を誇り得る状態にあつたとの前提にたち新潟地震による被告会社の被災損失は実質上精々八億円台にとどまり、地震直後の昭和三九年一〇月期における自己資本構成比率は同業他社と比較してもまた全産業の中においても平均水準以上であり、ことに急速に成長を遂げたその後の営業実績に鑑みるならば原告らを含む一七五名を解雇しなければ被告会社の存続は保証できないという状態ではなかつた旨の記載があるけれども、一方前掲乙三八号証、成立に争いない乙三九号証および証人川嶋勲の前掲証言によれば企業の経営分析をするにあたつては総資本収益率のみならず固定資本構成比率、付加価値生産性、自己資本構成比率等あらゆる指標、要因等を斟酌し、要は企業の収益性(被告会社の場合はまず企業の再建可能性)を考慮すべきことが認められ、また被告会社の企業体質は過去の営業実績からすればかなり脆弱であつたことは前認定のとおりであるから、前記甲一八五号証の右記載はにわかに信用し難いばかりでなく、本件解雇後における被告会社の営業実績が急速に増加したことをもつて、ただちに、被告会社の地震による被災損失は僅少であつたとか、生産活動に与えた影響は軽微であつたということはできない。

(二)  ところが被告会社はその後地震による被災に対して再建策を検討した結果、取りあえず二造の諸設備および一造の六号機の復旧ならびに操業の再開を決定するとともに一造の二、五、七号機の単純復旧の可否の検討を進めたことは前認定のとおりであるが、前掲乙一二、一三号証、一九号証の三、証人宮弘一の前掲証言によれば、右の二、五、七号機を一括復旧する場合は一〇億一二〇万円を要するにも拘らず生産再開後には右投資により増加する減価償却費、租税公課等を含めると、年間およそ三億五、九〇〇万円、二号機を単独復旧する場合は一億三、三〇〇万円の、五号機を単独復旧する場合は一億五、八〇〇万円の、七号機を単独復旧する場合は二億九〇〇万円の、各年間損失を計上しなければならないこと、被告会社の前認定のような過去の営業実績からすれば右のようなぼう大な損失を他の生産設備によつて補填することは事実上不可能であつて、企業体として甚しい重荷となる状況であつたこと、右の単純復旧の資金面からしても当時被告会社としては右の費用は借入金で賄なわなければならない状態にあつたにも拘らず、右にみたように採算のとれることが事実上期待できない投資に対して金融機関からそのための資金の貸与を受けることは事実上不可能であつたこと、さらに、調査によれば一造の地下はヘドロ状態であつて、従前と同一の場所に二、五、七号機のような重装備を設置する工場を建設するためには二〇メートル近くパイリングしなければならず、そのための費用は前記復旧経費をはるかに上まわる計算であつたことが、それぞれ認められ、右認定事実からすれば、被告会社において、二、五、七号機の単純復旧については復旧資金と採算性の点からこれを断念したことは容易に推認されるところである。

しかして、成立に争いない乙一八号証および前掲一九号証の三によれば被告会社はその間種々再建策を検討した結果七月二七日開催された中生協において、一造、二造の区別を撤廃して新潟工場として統合すること、六号機は二造に移設して、二、五、七号機の単純復旧は断念すること、新潟工場に一四七吋中質紙マシンおよび一四五吋オフコーターを増設することなどを骨子とした再建計画を提案したことが認められ、被告会社では右の再建計画に基づく新潟工場の正常人員を算出し、該算定人員を基礎として余剰人員を割出したことは前認定のとおりである。

この点に関し、原告らは地震後の再建計画は地震以前からあつた第二次体質改善合理化計画をそのまま実行に移したものにすぎず、本件解雇は地震を悪用した「合理化計画」によるものであると主張する。

なるほど、前掲乙八号証の二三によれば、昭和三九年五月当時被告会社では「今後五か年間の設備計画の構想」(原告らはこれを第二次体質改善合理化計画という。)として、〈1〉BKP二系列、〈2〉一四七吋上質紙新マシン(日産六〇トン)の新設、〈3〉Aマニラ計画を骨子とする設備計画を樹てていたこと、他方前掲乙一九号証の三によれば、被告会社は被災による再建計画として前記設備計画を被災マシンの代替設備と考えて復旧計画を樹て、事実右計画に基づいて再建の途を歩んだものであることが認められる。右認定事実からすれば。被告会社では地震後の再建計画として、地震以前すでに構想としてもたれていた設備計画を、全くそのままの形ではないにしても、かなりの部分取り入れてこれを実行に移したものであることが推認されるところであるが、前述のように、被災設備の単純復旧を経営者に強いることは、採算性の点から不可能な状況にあつた以上、いかなる再建計画をたて、いかにして企業の維持を図るべきかは法に牴触しない限り経営者の自由に委ねられていることであるから、たとえ、原告ら主張のように地震後の再建計画としていわゆる第二次体質改善合理化計画を採用し、これを実施することによつて余剰人員が算出されこれを解雇したとしても、当該解雇が前記の解雇権の濫用に該当しない限りこれをもつて直ちに無効ということはできない。しかして、本件解雇が専ら従業員に損害を与える目的で人員整理に藉口して解雇したり、その必要性がないのに敢えて解雇の挙に出た場合にあたると認むべき証拠はなく、かえつて、前記認定事実によれば、被告会社の存立維持のためやむなく余剰を生じた人員についてなされた解雇であるものと認められるので、この点からみる限り、本件解雇は解雇権の濫用ということはできない。

(三)  被告会社では七月二六日激甚法の適用を受けることを決定し、六号機の復旧要員および他の事業場への転勤者を除き、八月一日から一造の従業員五二四名について激甚法適用による休業の措置をとつたこと、その後被告会社では六号機の復旧要員その他の転勤、転務要員として八月一九日から九月一日までの間前後六回にわたり合計一九三名の者について逐次休業解除の措置をとつて出勤させた結果、九月三〇日現在の休業者は全部で三三四名(非組合員三名を含む)を数えたこと、およびその間被告会社では一造廃棄に伴う人員吸収策を種々検討した結果、各事業場等への増員、転勤等により一五二名の吸収をはかつたが、結局男子従業員一七五名(うち非組合員一名)については余剰人員として解雇するものとしたことは前認定のとおりである。

ところで、成立に争いのない甲八二号証、前掲乙一九号証の三、証人由水政次、同豊島正五の前掲各証言によれば被告会社において再建計画に基づいて正常人員を算定し、その結果生じた男子一七五名の余剰人員について種々人員吸収策を検討したが、その際、いわゆる勝田計画実現の可否が再建計画もしくは人員吸収策立案の中で占める位置はかなり大きかつたこと、すなわち、仮に右勝田計画が実現した場合およそ一五〇名ないし一八〇名の従業員を吸収し得ることとなるのであるから、右計画実現の動向は被告会社の人員吸収策、ひいては本件解雇について当然重大な影響をもつていたこと、しかるに、右計画は通産省の承認が得られず、また金融機関からの融資が期待できなかつたことから昭和三九年七月当時既に事実上不可能視されており、被告会社においては右勝田計画を再建計画の最終案の中に含ませず、従つて七月二八日開催の中生協においても勝田計画は一応検討されはしたものの再建計画としてはこれを考慮外としたことが、それぞれ認められる。

もつとも前掲甲一八四号証および、証人布施津三の前掲証言(二、四回)によれば、被告会社の布施勤労部長は九月一日労働省に同省参事官を訪ね、震災状況を詳細に説明すると共に、勝田計画の実現について労働省から通産省に対して働らきかけてもらいたい旨要請したことが認められるけれども、他方、前認定事実によれば、右勝田計画実現の隘路はひとり通産省の設備過剰を理由とする不承認にとどまらず、右計画の実現には総額約三〇億円に近いぼう大な資金を要し、その融資の見込みが立たないことにもあつたのであるから、むしろ右計画の実現は被告会社から再建計画の示された七月二七日当時すでに断念されていたのであり、その故にこそ、右の再建計画には勝田計画が織り込まれていなかつたということができる。従つて、布施勤労部長が九月一日に労働省を訪ね勝田計画の実現方について要請したのも、当時人員整理について苦慮していた勤労部長の立場として、また、勝田計画は被告会社のかねてからの設備計画でもあつたことから、一般的にその早期実現を期待するものとして、労働省を通じ間接的に右計画の実現について陳情したものにすぎず、これをもつて八月末もしくは九月一日当時被告会社は依然として勝田計画の実現、従つてこれに要する人員の吸収について現実の可能性あるものとして考慮していたものと認めることはできない。

してみれば、仮りに実現するものとすればおよそ一五〇名ないし一八〇名を必要とする勝田計画が再建計画の一環として事実上実現不可能であることがほぼ確実であつた以上、一造廃棄に伴う人員吸収策は、精々、臨時工、下請職場への本工転換、堅実な新規事業への進出および既設職場への増員等可能な限りの人員吸収策にとどまらざるを得ない状況にあつたのであるから、被告会社においては、既に七月二八日開催の中生協において再建計画を提示した当時その人員についてはともかくとして、いずれは解雇もしくは希望退職等により人員整理を実施せざるを得ないであろうことが、ほぼ確実なものとして考慮されていたことは推測に難くない。

しかして、証人布施津三(三回)、同阿部貞一(一回)、同山田栄一(二回)の前掲各証言によれば、激甚法適用による八月一日からの休業者と、然らざる者および八月一九日から前後六回にわたつて休業を解除された者と然らざる者との各選定は、本件帰休者選定基準もしくはこれに準ずる客観的合理的基準に基づいてなされたものではなく、単に従来の勤務成績を考慮し、まつたく企業の立場から、被告会社がいうところの「適材適所」の方針によつてなされたものであり、かつ、被告会社においては人員整理をなす場合生産体制の維持確保の必要上、休業を解除されて既に就労しているものは整理の対象から除外する方針であつたことが、それぞれ認められ、右認定に反する証拠はない。

(四)  ところで、被告会社においては人員整理の必要性は既に七月末ころにはかなり確実なものとして意識され、かつ、結局において、被解雇者は、被告会社における既定の方針どおり、激甚法の適用を受けて八月一日から休業となり、同法適用期間の終了する九月三〇日(但し、同法の適用はその後にも延長された)までの間に休業を解除されなかつた者を対象としその中から選定されたのであるから、被告会社における休業解除者の選定は、(八月一日からの休業者の選定の点については、当時の異常な混乱と時間的に切迫していた事情を考慮するならばともかくとしても)それが休業者と休業解除者との選別というにとどまらず、休業を解除されることなくそのまま休業者として残されるということは将来高度の蓋然性をもつて被解雇者となりうることを意味するものであり、かつ、これは被告会社における方針でもあつたのであるから、使用者としては、少なくとも八月一九日以後の休業を解除する者の選定に当つては主観的恣意的な選定に陥らないよう客観的合理的な基準に基づいてその選定をなすべき信義則上の義務があるというべきところ、被告会社が休業解除の際にとつた選定基準は前述のとおり、単に「適材適所」というを出ず、右の「適材適所」が合理的客観性のあるものであるとする立証のなされていない本件においては、右の基準は客観性を欠き主観的恣意的評価の混在するものであつて、それが実質上解雇のための選定基準といわれるためには著しく妥当性を欠くものといわざるを得ない。

ことに、証人布施津三の前掲証言(二回)によれば、被告会社布施勤労部長は八月二四日頃被告会社々長桜井督三から従業員を解雇するに際しての対策を勤労部として検討しておくようにと命ぜられ、その二、三日後には勤労関係の担当者を集めて人員整理に関する具体的な作業を開始するに至つたことが認められ、被告においてもこの時点には解雇の決意があつたものと自認しているにも拘らず、前記認定事実によれば、八月二五日に一名、同月三〇日に二七名、九月一日に一一名につき、それぞれ被告会社のいう前記「適材適所」の方針に基づいて休業を解除して出勤または転勤させたばかりでなく、前掲甲一九九号証、証人山田栄一の前掲証言(二回)に弁論の全趣旨を併せ考えれば九月三〇日現在休業中の組合員は三三一名であり、そのうち被告会社において新マシン要員として選んだ一二九名については一〇月一日から帰休者とし、右帰休者に該当しなかつた一七四名については解雇するものとしたが、残余の二八名については帰休者選定基準を適用することなく、従来の休業解除の方法と同様、ただ漫然と「適材適所」という方針で三三一名の中から選定し、これに対しては一〇月一日から出勤もしくは転勤の取扱いをしていることが認められるから、結局において、本件解雇の対象者は被告会社の従業員の中から「適材適所」の方針に基づいて選定された残余のものから決定されたということができ、本件解雇は対象者の選定の過程において著しく客観性を欠き主観的恣意的評価が混在しているものといわざるを得ない(右認定に反するかのごとき証人山田栄一の証言部分は弁論の全趣旨に照らしてにわかに信用することはできない。)。

また、前記認定事実に前掲証人山田栄一の証言(二回)を併せ考えれば、被告会社においては女子従業員が不足していたため当初からこれを帰休者選定基準の対象外としていたのであるが、九月三〇日現在の女子休業者三五名中一名は、昭和四〇年九月三〇日までに定年に達する予定になつていたので、その者についてはそのことを理由として解雇したことが認められ、右認定事実からすれば、当時余剰とされていた男子従業員中、右の期間内に定年に達することが明らかであつた者についても、また、そのこと自体を理由として解雇におよんだことは容易に推測し得るところである。しかして九月三〇日現在休業中の男子従業員のうち昭和四〇年九月三〇日までに定年に達する予定者は佐々木直一ほか八名であつたことは当事者間に争いがなく、かつ、これらの者が全部実際に解雇されていることについては被告は明らかに争つていないから自白したものと看做すべきところ、これらの認定した諸々の事実を綜合して考えてみると、九月三〇日現在の休業者中被告会社が帰休者選定基準を適用して一〇月一日からの取扱いについて組合に提示したのは三〇三名であり、しかもそのうち実際に右基準を適用されたのは女子三五名、男子九名を除外した男子従業員二五九名についてではなかつたかと疑わせるに充分であり、かかる帰休者選定基準の適用はそれ自体適用の合理性を全体として疑わしむるといつても過言ではない。

(五)  のみならず、適用された本件帰休者選定基準自体の合理性について考えてみるに、まず、第一項は一律に年令制限を設け、同項に該当しない限り無条件に解雇されることになつている。すなわち、これを第二、三項と対比してみた場合、末尾但書は第二、三項に該当しない者に対しても適用されるのに反し、第一項の非該当者は右但書の適用を受ける機会を全面的に奪われることになつている。なるほど証人布施津三の前掲証言(四回)によれば、第一項を設けた趣旨は若年労働者については他社への再就職が容易であることにあつたようであるけれども、第一項の適用除外を受けた満三〇才未満の者(生年月日が昭和九年一月一日以降の者)の中にも「今次地震により家屋が全壊した者および扶養家族数が多く、生活状況上特に配慮を要すると認めた者」がないとは必らずしもいい難く、第一項の適用除外者に限つて末尾但書の適用を除外した合理的理由に乏しいものといわなければならない。のみならず、前掲乙四号証の七、証人布施津三(五回)、同山田栄一(二回)の前掲各証言によれば、被告会社の生産体制にとつて従業員の年令構成、人員構成が逆ピラミツド(高年令者が多く若年労働者が少ない)になつていることが非常に重大なことであるとして、つとに中生協その他の機会に問題となつており、そのため被告会社では勤労部を中心として、全社的な立場に立つて長期計画の中で人員構成ならびに採用計画を考えるべきであるとして検討を加え、その一環として臨時工の登格試験に男子三〇才、女子二二才という年令制限を設け年令構成、人員構成をできる限り正常な方向に是正する努力が続けられて来たことが認められ、これに反する証拠はない。しかしながら、被告会社がその生産体制にとつて重要であり逆ピラミツドの人員構成の解消のため必要不可欠な若年労働者について前認定のごとく特定の者を休業解除させておきながら、残余の休業者の中から無条件で解雇するものとして設定された右基準の第一項は生産体制の再建、確立が焦眉の急であつた被告会社の方針としてはまことに理解に苦しむ措置というほかはない(若年労働者といつても証人布施津三の前掲証言(五回)ならびに原告岩橋孝平の本人尋問の結果(二回)によれば、いずれも相当年数の技術経験があり代替性ある新参者ばかりでないことが認められる。)。

そもそも、証人土橋昭富の証言により成立の認められる甲四一号証、証人豊島正五の証言および原告岩橋孝平の本人尋問の結果(二回)によれば、本件の帰休者選定基準は当初九月七日被告会社で解雇の提案をした際、組合の質問に対して「(解雇基準は)人物本位に考えた。仕事に適するかどうか、勤務状況、年令、会社の方針に現在および将来に亘つて添つてくれる人を考慮して出した。」と口頭で説明したことを具体化したものであり、両者はその実質において同一であることが認められるが、右にいう「会社の方針に現在および将来に亘つて添つてくれる」という表現は、当時の被告会社における前認定のごとき労使関係を背景として考えれば、右の基準による被解雇者の選定は、それが直ちに不当労働行為に該当しないまでも、いかにも特定の者を差別する意図のもとに設定されたものではないかとさえ推測させ得るものであり、それが具体的には基準の第一項に表現されて規定されているともいえるのであつて、その意味において右の基準の合理性は極めて疑わしいものといわざるを得ない。

次に帰休者選定基準第二項についてみるに、一般に、勤務成績を解雇基準とすることは、企業への貢献度を尺度として被解雇者を選定するものであつて、それ自体解雇基準としては合理性があるというべきであるが、その適用した結果についてみると甚だ合理性を欠くものといわざるを得ない。すなわち、証人布施津三(二回)および同田中敏夫(一、二回)の前掲各証言によれば、被告会社では従来毎年二回人事考課を実施していたため、本件解雇に際しての帰休者選定基準の一としてこれを用いることとし、昭和三六年から三八年までの過去三か年間の人事考課の結果をとり、各年度の上期、下期の平均をもつて当該年度の各人の勤務成績としたが、各職場における評定偏差を是正するため、さらに各年度毎に各人が所属していた各職場の平均点を算出して調整したうえ、第一段階から第五段階までの五段階に格付けし、上位の二段階に該当したものを基準第二項に該当するものとして選定したことが認められる。然しながら、他方証人田中敏夫の前掲証言(二回)、同証言によつて直正に成立したものと認められる乙五二号証によれば、右にいう職場の平均点数なるものは小は〇・三から、大は一八・七というようにあまりにもその偏差が甚だしくこれをもつて各人の勤務成績を調整するというにはあまりにも不合理であることが認められ、ひいては勤務成績の評価それ自体の客観性を疑わしめるものといわなければならない。してみれば、帰休者選定基準として勤務成績を加味したこと自体は合理性があるにしても、その適用において著しく客観性を欠きこれをもつて基準の客観的、合理的適用ということはできない。

なお、帰休者選定基準第二項についてみるに、職場適性、健康および年令を評価しこれを解雇基準の一として採用することは勤務成績と同様合理的というべきである。もつとも、証人布施津三(四回)および同山田栄一(二回)の前掲各証言によれば、右の職場適性なるものは従業員の当該職場への適性もしくは将来予定される職場への適性ではなく、昭和三九年三月三一日現在所属していた職場そのものの評価であることが認められ、これによれば当該従業員自身の所属職場への適性というよりは職場評点ともいうべきものであるから、いささか問題がない訳ではない。しかしながら、右の各証言によれば昭和四〇年一〇月には一四七インチマシンが稼働開始の予定となつていたので、同マシンの稼働操作の必要性に重点をおき代替性のある職場と然らざる職場によつてその評価を異にしたものであることおよび、所属職場そのものの評価だけで帰休者と被解雇者を選別するものとすれば低位に格付けされた職場の従業員にとつて酷となるので、右の職場適性のほかに健康度、年令等をも加味して評価し、その総合点をもつて両者を選別したものであることが認められるから、これによれば職場適性の評価は別段合理性を欠くものとはいわれない。さらに、健康度、年令を基準として設定すること自体およびその適用についても合理性を欠くものとは認められない。

しかしながら、前判示のごとく、被告会社が設定した三項目に亘る帰休者選定基準の第一、二項が合理性を欠くものと認められる以上、右の基準は全体として合理性を欠くものといわなければならない。

四、結論

本件解雇は新潟地震の被災による損失を原因とし、被告会社の再建をその理由としてなされたものであるが、被告会社の前認定のごとき当時の企業の規模、体質および収益性等からすれば、地震によつて蒙つた損失は大きく、工場設備等を単純復旧することによつて企業の再建をはかることは被告会社の企業の採算性を考慮すれば不可能にちかく、従つて、地震後新たな観点に立つて採算性のある設備計画(再建計画)をたて、その結果企業の存立維持のためやむなく人員整理を行なうに至つたものということができる。

被告会社は、企業再建のための人員整理を行なうにあたり被解雇者数をできるだけ少人数におさえるため種々人員吸収策を講じ、また解雇された者については同業他社へ再就職させるためその斡旋に尽力するなどその努力のあともうかがわれないこともなく、また、被告会社が当時おかれていた事情からすればその再建は焦眉の急であり迅速になされなければならない情況にあつたことは充分認められるところである。

しかしながら、被告会社では生産体制の維持確保に固執するの余り、整理の一環として希望退職を募つてこれを円滑に遂行することなく、また、休業解除の段階においてすでに解雇がやむを得ないものであることが明らかとなり、かつ、その際被解雇者は当時の生産体制に最も影響の少ない休業中の者から選択することを被告会社の方針としていたのであるから、休業解除は休業者と休業解除者との選別というにとどまらず、休業を解除されることなくそのまま休業者として残されるということは将来高度の蓋然性をもつて解雇されることを意味するものであつたにも拘らず、客観的な基準によることもなく、また解雇の対象者の範囲をひろく一造もしくは全工場の従業員に拡大することなしに一部労働者の利益のみを偏重して休業解除を行ない、結局これにとり残された残余の者を対象として帰休者選定基準(解雇基準)を適用し、しかも右「基準」適用の段階において、さらにその対象外人員を設けて適用除外とするなど「基準」の適用についても多くの疑念を抱かせるものであつて、かかる被解雇者の選定の過程、「基準」の適用の対象およびその方法、ひいては右「基準」の内容自体について合理性を欠いたものと認めざるを得ず、このことは中労協において休業問題に関し組合側に対してとつた被告会社の措置ならびに帰休者選定基準が結局は「会社の方針に現在および将来とも添つてくれるかどうか」であるとする被告会社の組合に対する態度と併せ考えると、本件解雇は全体としてその合理性を疑わせるものというべきである。

しかして、使用者たるものは、人員整理(解雇)の必要がある場合であつても、その対象者の選定に当つては主観的恣意的な選定に陥らないよう客観的合理的な基準に基づいてその選定をなすべき信義則上の義務があることは前述のとおりであるところ、被告会社が本件解雇に際してとつた前記措置は著しく客観性を欠き主観的恣意的評価の混在するものであつたから、結局本件解雇権の行使は、原告らのその余の主張について判断するまでもなく、権利の濫用として無効といわなければならない。

第三、

一、原告若林正平の定年退職について

以上認定したように、被告会社が原告らに対し昭和三九年九月三〇日付をもつてなした解雇の意思表示は解雇権の濫用に基づくものであつて無効であるというべきところ、被告は、原告若林に関し、本件解雇が無効であつても、同原告は昭和四四年二月末日をもつて労働協約に定められた定年に達したので被告会社の従業員であることの確認を求める利益はないと主張するのでこの点について判断する。

まず、原告若林が、被告主張のとおり、昭和四四年二月末日限り労働協約所定の定年に達したことは当事者間に争いがない。ところで、原告は、被告会社は原告若林に対して定年に関する申出もなさず、これに関連する辞令交付等の諸手続もせずに放置していたのであるから、いまだ従業員としての地位を失うものではない旨主張するけれども、前掲甲一〇号証によれば、被告会社と組合との間に締結された労働協約第四五条には、「組合員が、次の各号の一に該当する場合は退職とする。一、定年に達したとき(以下省略)」と規定されていることが認められるが、右の規定の趣旨とするところは、定年に達したことにより雇傭関係が自動的に消滅し従業員としての地位を失うとするものと解されるから、この点に関する原告の主張は理由がない。

よつて、原告若林を除くその余の原告らに関しては、被告会社のなした本件解雇の意思表示が無効である以上、依然として被告会社の従業員たる地位を有するものというべきであるが、原告若林については、前記労働協約により満五五才六カ月となつた日を含む月の末日である昭和四四年二月末日をもつて被告会社を定年退職となつたものと認められるから、原告が被告会社の従業員たる地位の確認を求める第一次請求はその理由がない。

二、原告らの別途収入の控除について

しかして、原告らの受くべき昭和三九年一〇月以降昭和四四年四月までの賃金ならびに一時金はそれぞれ各原告に関する別紙賃金請求明細表記載の賃金(但し、原告若林に関しては昭和四四年三、四月分を除く。)、および別紙一時金請求明細表記載の一時金であり、被告会社の賃金支払日は毎月二五日、一時金支払日は別紙一時金請求明細表中「支払日欄」記載の日であることおよび、被告会社は昭和三九年一〇月一日以降原告らの従業員としての地位を争い、賃金および一時金を支払わないことは争いがないところであるから、原告らは被告会社に対して右各賃金および一時金の請求をなし得るものというべきである。

ところで、被告は原告らはいずれも本件解雇後他で稼働し別紙賃金請求明細表記載の各賃金の少なくとも四割以上の収入を得ており、右収益は民法五三六条二項但書にいう債務を免れたことによつて得た利益に該当するから、本件請求金額から控除すべきである旨主張するので、以下、この点について判断する。

(一)  まず、原告らの収入の点について検討すれば、次のとおりである。

(1) 原告三膳博、同渡辺栄之進、同沖村富蔵、同高橋秀男、同木山修吾について

右原告らが電気工事の作業に従事したことは当事者間に争いがない。しかしながら、右作業に従事した期間、日数、それによつて得た収入等については本件全証拠によるもこれを認めるに足りない。

(2) 原告新田見長吉について

証人金沢美代策の証言および原告新田見長吉の本人尋問の結果によれば、原告新田見長吉は本件解雇後生活費を得るため昭和四〇年九月新潟市本町通一一番町一、八四一番地所在有限会社金沢商店に雇われ、賃金は日給で一か月分をまとめていわゆる日給月給として支払われ、その金額は家族手当等の諸手当を含めて当初は約二万八、〇〇〇円であつたが、昭和四一年以来毎年一二月に一、〇〇〇円昇給し、現在は現場主任の地位を与えられて、一か月約三万二、〇〇〇円の給料を得ているほか、昭和四一年以来、毎年末にその年の営業実績に応じた賞与を得ているがその額は平均して約一万円程度であり、他には全く収入がないこと、右各収入の一部は生活費として費消するほか、一部を本件解雇反対闘争のための資金として支出していることおよび右の雇傭関係は原告新田見に関し本件解雇が無効と確認され、被告会社への復帰が実現するまでの暫定的なものであることが、それぞれ認められ、右認定を覆すに足る証拠はない。

(3) 原告渡辺昭衛、同細野正幸、同古川吉治、同杉原彰について

当事者間に争いのない事実および証人長谷川昇の証言によれば、原告古川吉治ほか三名はかねてから株式会社長谷川商会代表取締役長谷川昇と知合いの間柄にあつたが、昭和四二年頃右長谷川は原告古川らから被告会社を解雇されたから働らかせて欲しい旨懇請され、右長谷川も以前勤めていた会社から解雇された経験もあつたことからこれに同情し、別段日数、時間等に拘束されることなく暇の折に働らくという条件で原告古川吉治ほか三名を雇うことになり、原告古川らはこれによつて収入を得ていたことが認められ、右認定に反する前記証言部分は採用しない。しかしながら、原告古川らが右長谷川商会から得た収入の時期、金額等については本件全証拠によるもこれを認めるに足りない。

(4) 原告若林正平について

原告若林が草花の露天商を自営し、収入を得ていたとの点については、本件全証拠によるもこれを認め得ない。

(5) 原告本間新二について

証人島田量之介の証言により真正に成立したものと認められる乙四六号証の一ないし五、および原告本間新二の本人尋問の結果によれば、原告本間新二は昭和四〇年五月二九日新潟市東入船町三七三番地所在株式会社山治鉄工所に対して、被告会社を解雇され現在復職闘争中であつて生活に困窮しているからアルバイトとして雇つて欲しい旨懇請して同会社に雇われたが、同会社における賃金は所謂日給月給で一か月間の平均稼働日数は約二四日であり、賞与は年二回支給されること、昭和四〇年中の受給総額は二九万八、四六四円、昭和四一年中のそれは五二万四、五九九円、昭和四二年中のそれは五四万五、一一九円、昭和四三年中のそれは六五万七、七五八円、昭和四四年一月から四月までのそれは二一万一、四四七円であること、および右のアルバイトは、原告本間新二に関し本件解雇が無効と確認され被告会社への復帰が実現するまでの暫定的なものであることがそれぞれ認められ、右認定に反する証拠はない。

(6) 原告宮脇孝平について

証人島田量之介の証言により真正に成立したものと認められる乙四七号証の二ないし六、および原告宮脇孝平の本人尋問の結果によれば、原告宮脇孝平は昭和四〇年九月二一日生活費を得る目的で新潟市女池六九二番地所在新潟運輸建設株式会社に嘱託作業員として雇われ、以来雑役に類する作業に従事していること、および同会社における同原告の賃金はいわゆる日給月給であつて、昭和四〇年中の受給総額は三三万四、四〇〇円、昭和四一年中のそれは三九万三、〇八九円、昭和四二年中のそれは四二万四、四八一円、昭和四三年中のそれは四八万四、一六三円、昭和四四年一月から同年四月までのそれは一二万九、一三〇円であることおよび右の雇傭関係は原告宮脇孝平に関し本件解雇が無効と確認され被告会社への復帰が実現するまでの暫定的なものであることがそれぞれ認められ、右認定に反する証拠はない。

(7) 原告小林彦栄について

証人島田量之介の証言により真正に成立したものと認められる乙四五号証の一ないし六および原告小林彦栄の本人尋問の結果によれば、原告小林彦栄は昭和四〇年一〇月四日から昭和四二年八月一日まで新潟市船江町一丁目八八番地所在遠藤鋼材株式会社鉄工部に生活費を得る目的でアルバイトとして臨時に雇われ、所謂日給月給による受給賃金額は昭和四〇年中は八万四、二一五円、昭和四一年中は三八万四、七三一円、昭和四二年中は二四万三、二〇五円であつたこと、同原告は同年八月二日から同市船江町一丁目所在京浜鉄木工株式会社に前同様アルバイトとして臨時に雇われ、日給月給による受給賃金額は昭和四二年中は一三万一、三四〇円、昭和四三年中は五六万二、七一一円、昭和四四年一月から同年三月までの受給総額は一三万四、五三四円であることおよび、右アルバイトはいずれも原告小林彦栄に関し本件解雇が無効と確認され被告会社への復帰が実現するまでの暫定的なものであることがそれぞれ認められ、右認定に反する証拠はない。

(8) 原告前田長栄について

証人島田量之介の証言により真正に作成されたものと認められる乙四八号証の一ないし四および原告前田長栄の本人尋問の結果によれば、原告前田長栄は昭和四一年四月ごろ生活費を得る目的で新潟市藤見町二番地所在石井精密工業株式会社新潟製作所に臨時工として雇われていたが、昭和四二年六月頃同会社を辞めたこと、その間の同社における賃金は日給月給で昭和四一年中の支給額は二三万六、七六五円、昭和四二年中のそれは一五万五、九三二円であつたこと、同原告は昭和四三年二月九日から新潟市上大川前通九番町所在株式会社新潟ビルサービスに前同様勤めたが、その雇傭期間は火力発電所の建設工事終了までということにあり、同社では三か月間の試傭期間を経過したのち本採用となつて現在に至つていること、同社の賃金は日給月給で昭和四三年中の受給総額は二九万七、二〇〇円、昭和四四年一月から同年四月までのそれは一〇万六、〇〇〇円であることおよび右の雇傭関係はいずれも原告前田長栄に関し本件解雇が無効と確認され被告会社への復帰が実現するまでの暫定的なものであることが、それぞれ認められ、右認定に反する証拠はない。

(9) 原告島垣光雄について

当事者間に争いない事実および証人島垣又男の証言によれば、原告島垣光雄の実弟島垣又男は昭和三八年四月ころから自動車車体修理業を営んでいたが、原告島垣光雄は本件解雇により職場を失つたので、本件解雇反対闘争に従事するかたわら、右又男の営業の手伝いをなしてこれに対する謝礼金程度の収入を得ていたこと、同原告の又男方への手伝いは時間、日数等の拘束なく、暇の折をみて手伝う程度であることが認められ、右認定に反する証拠はない。しかして、同原告が右又男から得た収入の時期、金額等については、本件全証拠によるもこれを認めるに足りない。

(10) 原告横山豊、同岩橋孝平、同小林進、同伊藤善隆、同小林昌夫、同国分重剛および同鈴木治雄について

原告小林昌夫、同小林進、同横山豊及び同鈴木治雄が生活保護法による生活扶助を受けていることおよび資金カンパがよせられていることは当事者間に争いがない。

しかしながら、資金カンパの時期、金額、目的等については何らの立証もなく、また、右原告ら七名が解反労組の専従者として毎月相当額の専従手当を得ている点および行商として収入を得ている点については本件全証拠によるもこれを認め得ない。

(二)  以上の認定事実によれば、本件解雇後他で収入を得たものと認められるのは、原告若林正平、同岩橋孝平、同伊藤善隆、同国分重剛を除くその余の原告らであり、そのうち原告新田見長吉、同本間新二、同宮脇孝平、同小林彦栄、同前田長栄については前記認定額相当の収入があつたものであるが、その余の原告らの収入額はこれを認めることができないから、同原告らの請求金額からこれを控除するに由ないものといわなければならない。

(三)  ところで、右に認定した原告新田見長吉外四名の収入は、民法五三六条二項但書にいわゆる「自己の債務を免れたるに因りて得たる利益」に該当し、被告会社から受くべき賃金等の請求金額からこれを控除すべきである旨の被告の主張につき考えてみるに、双務契約たる雇傭契約から生ずる労務給付義務および賃金支払義務についても民法の危険負担の原則は当然適用があると解すべきはもちろんであるが民法五三六条二項但書にいわゆる「債務を免れたるに因りて得たる利益」とは債務を免れたこと自体から直接得た利益をいうべきものであつて、単に債務の免脱の機会を利用し、これと別個の原因によつて得たにすぎない利益、すなわち債務の免脱と相当因果関係のない利益は包含しないものと解するを相当とするところ、本件における原告新田見長吉、同本間新二、同宮脇孝平、同小林彦栄、同前田長栄らの前記解雇後の収入はいずれも被告会社を解雇されて職場を失つたため、右解雇の効力を争つて本件訴を提起して訴訟を遂行すると共に、その機会を利用し、自己および家族の生活維持のため本件解雇が無効と確認され被告会社への復帰が実現するまでの間暫定的に労務に従事し、その際得た収入であつて、かかる収入は被告会社に対する労務給付義務を免れたこと自体から直接得た利益とはいえないものと認められる。もつとも、右の如く解すると被解雇者は解雇を受けなかつた場合よりも多くの利益を得ることになり不合理であるように見えるけれども、賃金のみによつて生計を維持しなければならない労働者にとつて労働者が自己および家族の生活を維持する程度の賃金を得ることは必らずしも原状回復以上の利益を得るものでないから不合理であるとはいえないのみならず、もし前判示の如く解しなければ、解雇後復職までの間他所で働いた者の方が、右の如き努力を払わず漫然無為に過した者よりも不利となり、また使用者においても被解雇者の労働意欲およびその努力の有無によつて償還を受けうるか否かが決せられることになり、極めて不合理な結果とならざるを得ない。

そうだとすると、原告新田見長吉ほか四名の前記収入は本件のごとき事情のもとにおいては民法五三六条二項但書にいう「自己の債務を免れたることに因りて得たる利益」に該当しないから、その余の点につき判断するまでもなく被告会社に対する原告らの賃金等の債権額から右の収入を利益として控除すべきであるとする被告の主張は採用し得ない。

第四、以上の理由によつて、原告若林正平の第一次請求は失当であるからこれを棄却して予備的請求を正当と認めて認容し、その余の原告の請求はすべて理由があるからいずれもこれを認容し、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、仮執行の宣言につき同法一九六条一項を、それぞれ適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 大塚淳 泉山禎治 佐藤歳二)

(別紙省略)

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